かわうそ日記 ( 2001年07月 ) こよみのページ こよみのページ
わびしい風景  (2001.7.30[月])

京都駅 昨日、那智勝浦の本宅から舞鶴の自宅に帰った。今日から出張だったので今回の帰省は土日の強行軍。
 久々に電車での帰省だったが、同じ近畿圏だというのに電車で6時間以上もかかる。帰りは乗り継ぎのタイミングが悪かったせいもあり午後2時半に勝浦を発ったのに舞鶴に着いたのは午後9時過ぎ。長く電車に揺られていて気持ちが悪くなってしまった。

 京都駅の舞鶴方面へ向かう電車(途中から城崎とかへ行ってしまうものも含む)のホームは他の路線から隔離されている。そのせいか、日曜日の夕方だというのに閑散としてちょっとわびしい
 ということで本日の写真は、40分の乗り継ぎ待ち時間に写した「閑散としたホーム」でした。

追記.
本日は、福井県の三国というところに来ています。で、三国駅を見ましたが、この駅にはわびしい風景があふれておりました(カメラが無かったので映像はなし)。


盛夏の頃?  (2001.7.28[土])

稲穂 今日は一日曇り。涼しい一日で夕方の今は蜩の声も聞こえている。盛夏のはずなのに初秋といってもおかしくないような一日だった。
 近所の田圃では稲穂が頭を垂れ始めている。

 本宅のある那智勝浦町に初めて住ん年には、お盆の時期に稲の刈り取りが行われることに驚いていたが、今は重そうな稲穂をみて、お盆の時期だと感じるようになっている。
 それにしても、季節の移り変わりは早い。同じ田圃で少し前に田植えの写真を撮ったと思っていたのに、次にここへ戻るときは刈り取った稲株の写真を届けることになりそうである。


目が回る  (2001.7.27[金])

 和歌山の本宅へ戻ってきました。
 出張の合間のかなり強行な帰省。来週はまた出張だ。

 昨日は船酔いで目を回していたのだが、今日は電車で乗り物酔い。
 乗り物に弱いかわうそである(鋭敏な感覚の持ち主だと、言い張ることにはしているのだが)。
 今夜は目が回るのでこの辺でお休みなさいである。


新作・宣伝  (2001.7.25[水])

 時々、「1年分の月齢のわかるページがあれば・・・」といった要望を頂くことがあった。今夜は出張中で夜の時間が空いていたので、それらしいものを試しに作ってみた。
 作ってみたら結構簡単に出来、その上見てみると以外におもしろいのでアップしてしまった。
 当面月齢カレンダーに間借りしての掲載であるが、人気があるようならもう少し入りやすいように表玄関を作ってあげようと思う。
 どんなものでしょうか(お試しは、年間月齢カレンダーから)。

 作者まで、ご感想などいただけると嬉しい(よろしくお願いします)。

 本日は、試作コンテンツの宣伝のみ。
          出張中のかわうそでした。


大荒れの翌日  (2001.7.23[月])

 昨日は、試合でした。
 結果は、シングルス・ダブルスとも惨敗。
 シングルスは、自分に故障があったので最初の1ゲームの具合をみて、あきらめダブルスへ体力温存モードに入ってしまいました。
 このためシングルスの「惨敗」は、納得しているのですが、折角照準を合わせたダブルスでの「惨敗」は、かなり・・・でした。
 ダブルス終了後は、久々に「大荒れ」。大荒れの原因となった事柄は思い出すと、今でも荒れそうなので書かないことにします。

    未だに何本か血管の切れているかわうそでした。


カスタニエンの木  (2001.7.21[土])

 「カスタニエンの木」
 名前だけは知っているが、どんな木なのか知らない。図書館にでも行って調べればすぐわかるのかもしれない。だが調べなくてもいつか偶然に知る機会が巡ってくる、そんな確信めいたものが私の中にあって、その偶然に遭う楽しみのために調べるのを惜しんでいる。

 この木の名前は「夜と霧」という本で知った。ドイツ強制収容所にユダヤ人として収容された著者、フランクル博士の体験記録である。
 木の名前は「苦悩の冠」の章に現れる。収容所で亡くなった女性が息を引き取る日、博士に自分の唯一の友人だといって、窓からわずかに見えるカスタニエンを紹介した。
 彼女が木へ話しかけていると、ある日その木が彼女の言葉にこたえたと言う。

 「私はここにいる、私はここに。私はいるのだ、永遠のいのちだ」と。

 本の奥付にメモした読了日は1992年。既に9年前である。このときからカスタニエンの名前は記憶に焼き付いた。いつかカスタニエンの木を見るだろうという確信と一緒に。


ヒメジョオン  (2001.7.19[木])

ヒメジョオン ヒメジョオン:北米原産。都会の路傍や荒れ地に生える。

 帰化植物だったか。とはいえ、生まれてこの方(正確には物心ついてから)ずっと身近に見かける花なので私にとっては、日本国籍の花のように思える。
 取り立てて美しい花というわけではないが、初夏の濃緑の草むらに白い花が鮮やかなコントラストで浮かび上がるとき、視線が吸い寄せられることがある。
 子供の頃からヒメジョンと呼んでいたので何となく男の子のように感じるこの花(「ジョン」=男名なんて連想で)、でももしかして漢字で書いたら「姫紫苑」なのだろうか?
そうなら随分しとやかな名前だが、ほんとのところはどうだろう?
後日・追記
常連のみどりがめさんが教えて下さいました。
ヒメジョオンは「姫女苑」と書くそうです。
これに対して、「姫紫苑」はヒメシオン。別種があるそうです。紫苑同様秋咲きだそうですので、秋になったら探しに出かけましょう。


舞鶴の梅雨明け風景  (2001.7.15[日])



 紫陽花は日陰の花である。
 まぶしい陽光の下に輝く花ではなく梅雨の雨の中、傘をさして歩く路地にひっそりと咲く花だ。

 梅雨が明け、夏の強烈な日差しの中で咲き遅れた紫陽花がとまどいがちに咲いていた。
咲き遅れた紫陽花


入道雲 夏の到着は入道雲が知らせてくれる。

 青い空に真っ白な雲が立ち上がり、梅雨が終わったとふれ回っている。

 青い空、白い雲、強い日差、濃い影。強烈なコントラストの中の夏の午後。


待ち時間  (2001.7.11[水])

夏の海 後少しで、仕事が終わる。今は時間待ち。
 3時間の時間待ち。何も予定の無い3時間、苦痛のときもあるし幸せな贈り物であるときもある。今は後者。

 昨夜見た海は月と火星、そして夜光虫に輝いていた。
 今見る海は夏の日差しに輝いている。どちらも穏やかな海。
 波の音だけが聞こえる。

 繰り返し寄せる波。波に時間は無い、過去も未来も波には区別が無い。あるのは無限。無限の繰り返し。
 ぼんやりと無限の波の音を聞くうちに有限な時間は過ぎ去って行く。
 人間の時間に戻れば、残りの時間は既に1時間を切っていた。


思いこみ  (2001.7.8[日])

 出張先からの第2弾です(出張3日目の早朝に書いてます)。
 昨日は(たぶん今日も)、ずっと戸外に居たのでずいぶん日焼けしました。もっともこの時期でも日が陰ると「寒い」と感じる寒がりの私ですので、服装は長袖。うんと暑い時間は袖まくりしてましたが、それでも肌の露出は少な目であったので、普通の人に比べると「日焼け」もやや軽症。でもあと3日もしたら大分焦げていることでしょう(かわうその丸焼き)。
 さて、昨晩この街の本屋さんにぶらりと入ってみると、夏休みの読書フェアと言うやつか「名作」と言われるような本が平積みで並んでいました(ただ、紹介文を書いたプレートが全部の上に載ってましたので、かえって表題が読みにくかったのですが)。
 その中に、
   「沈黙の春・・・レイチェル・カーソン著」
がありました。今を去ることおよそ20年前、何となく手にして読んだことのある本です。中身はかなり印象が薄らいだのですが最初のページにキーツの詩(もちろん訳文)が載っていて、その詩の印象は強く残っおり、このため本自体の名前も私の脳に刻まれておりました(沈黙の春と言われれば、レイチェル・カーソンと著者の名前が即座に出てくるくらいには)。
 懐かしくなり、平積みされたその本を手にして開いてみてびっくり。カバーの折り返した部分に著者の写真とプロフィールが印刷されていたのですが、それを見て
  「レイチェル・カーソンて、女性(!?)」
そう、20年来私はこの本の著者は男性だとばかり思っていたのでした。気づいてみれば「レイチェル」という名も確かに女性の名前だ。何で男性だと思いこんだのだろう。
 帰り道、思いこみの原因は何だろうかと考えてみた。そこで気づいたのは、先に書いた「キーツの詩」。
 多分、本文より強烈に印象に残っていたキーツの詩で、この本の著者のイメージはキーツのイメージになってしまっていたのだ。納得。

 作者男性説の謎(私以外には無意味な謎ではあったが)は解けたが、今日本を手にしてもう一つ気になった。
  「湖水のスゲは枯れ果て、鳥は歌をうたわない」
とこの本には書いてあった。私の記憶の中は
  「岸辺の葦は枯れ果てて、鳥も歌をうたわない」
となっている。訳文だから訳した人が違うのか、それともこれも私の思い違いたっだりして・・・。いつか家の本棚を探してみよう。


昨日の月食  (2001.7.6[金])

 昨晩は月食だった。
 9時を過ぎた頃帰宅し、本宅に電話すると月食の話しになった。
 「明日の晩は出張先で月食を眺めながら仕事かな」
と言ったところ、
 「え、今晩てTVで言ってたよ」
と妻。私が日付を間違えて覚えていたのだった。その昔、天文少年だった頃は月食なんてイベントがあるとわくわくして、今か今かと待っていたのに、近頃は感動が薄くなっている。歳かな?
 忘れられていて月がすねたわけでは無いだろうが、昨晩の月食の時刻は雨。かすかに雲が薄くなったとき、おぼろな月が確認できただけだった(確かに欠けていたようだった)。

 そういえば、高校生の時に平日の昼間に金星食(金環食じゃないよ、金星が月に隠される現象)があり、これの観測がしたくて正直に「金星食の観測がしたいので先生の授業休ませてください」と言ったら、許可されたことがあった。
 理解のある先生もいたものだ(たしか、生物と地理の2コマ休ませて頂いた)。懐かしい思い出である。
(あのころ、僕も若かった・・・)

追記.
予定していた月食は無いが、出張は予定どおり。でも本日も雨。
明日は晴れてくれるかな?


自宅到着後の1日  (2001.7.3[火])

 本宅から自宅へ戻った。
 本宅にいる間は、梅雨はどこかへ行ってしまったらしく、全く雨が降らなかったが舞鶴に戻るとあちこちに雨の降った痕が見えた。太平洋側と日本海側の気候の違い。昨日は大分降ったらしい。

 朝になると、道路はすでに乾いており、舞鶴にも「夏の空」が広がっていた。今回の本宅行きでなぜか数の増えた植木をベランダに並べて水をやる頃には、既に十分暑かった。
 その後も気温の数値は単調増加を続け、昼休みに外へ走りに出かけた頃はうだるようなという表現がぴったりの暑さ。走り終えて帰ってきた時にはめまいがした。夏だな。


パン以外が欲しい  (2001.7.2[月])

 一夜明ければ、本宅最後の日(今回の休みのということ)。
 平日ではあるが、身重の家内の検診の付き添いのため、1日余分に休ませてもらった。これからしばらく仕事がつまりそうなので今のうちに1度くらいはという、半ば罪滅ぼし的な1日である。

 その1日のおかげで、ちょっとだけ余分な時間が出来、久しぶりに調べもの以外の本が読めた。近頃調べものや役に立つ本の類ばかりを読むことが多くて、「たぶん、役立たないけれど読みたい本」を読むことがなかなか出来なかった。これに関しては、自分の怠慢の故もあるので、自業自得ではあるが。
 私だけかもしれないが、現在必要な本ばかり読んでいると、何とはなしに自分がどんどん低俗になってしまうような気がする。さして高尚な生活を送っているわけでは無いが、いくらかは「パンのみにて生くるにあらず」と言う部分を残しておきたいのである。
 今回は、身重の家内のおかげで日曜の深夜からしばしの間「パン以外のもの」をかじる機会が得られて、ちょっとだけ生き返った気がする。


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