かわうそ日記 ( 2002年07月 ) こよみのページ こよみのページ
海ばかり  (2002.7.31[水])

 今日は、ずっと海を眺めて過ごした。
波しぶき延び延びになっていた出張へ出て3日目、7月最後の日は高曇りの空の下で海を眺めていた。

 海のただ中に他の陸地から孤立した立ち上がる岩礁に上陸して、一日を過ごす。一番高い岩の上に立っても、海の彼方の島影も見えない。
天候は悪くないが、風だけは強い。一日中飽きることなく西風が吹き、岩にぶつかる波の飛沫を巻き上げている。

 釣り人には垂涎の場所なのかも知れないが、生憎その趣味の無い私は、竿も持たずにただ海を眺めるだけ。
碧い海から青緑の波が立ち、黒い岩にぶつかり白い飛沫となる、その間の水の色の変化を眺めるうちに時が過ぎる。不思議なくらい退屈はしない。元来ナマケモノ故のことだろうか。


追記.予定通り、この日記をアップロードする環境が無く、掲載は本土に戻ってから。皆さんの目に触れるのは、2週間後となりそうである。精々それまで書き溜めることにする。


梅雨、明ける  (2002.7.27[土])


梅雨明けをニュースが報じていた

冷房に負けたのか体調が悪い。
明るいうちに仕事を切り上げ、帰ることにする。
机の上を片づけ、PCの電源を切って席を立つと
ビルの向こうにperl pink の夕雲見える。

梅雨が明けたのか、と思った。


向日葵  (2002.7.26[金])

明るすぎる風景が、かえってもの悲しく感じることがある。

8月のページに「終戦記念日」を入れる際、終戦記念日を象徴する風景はと考えた時、脳裏に浮かんだのは夏空を背景にしたひまわりだった。
明るすぎる風景が悲しく見えるのは、自分とつながっていると感じていた日常や自然が、実は自分とは無関係だったと気づくからだろうか。
自分が悲しいときも、風景は変わらずに明るい表情を見せるとき、自分との連帯感が失われ、その喪失感が加わるからかえって悲しいのかも知れない。

向日葵日曜日の夕方、自転車で通り過ぎるバイパス脇の土手で向日葵を見つけた。今日一日太陽を追いかけて疲れたのだろうか、夕日を背にして俯いていた。暑い一日だったから。

 明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり(斉藤 玄)

夏の詩を探している途中で目にした句。重病で、残された余命数日と言う妻が、「明日も暑いのでしょうね」などと呟いたとき、夫は何と答えるのだろう。
病室の窓から見える風景には、夕日を背に、俯いた向日葵があったかも知れない。



或る歌に思うこと  (2002.7.25[木])


 愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。
  あまりに惨く 死し我が子ぞ
(釈 迢空)


 7月末から出張の予定があったので、出張の前に季節のページの八月分を作った。
 季節のページには、その時期の行事や記念日、季語などを気の向くままにいてているが、八月のページには原爆忌と終戦記念日と言う戦争に関係する2つの言葉が入った。冒頭の歌は終戦記念日の説明文の中に入れたものだ。

  聖人は悲しみを超越し、草木は悲しみを感ずることもない
  それだから全ての悲しみは、聖人でもなく草木でもない人間に流れ込む
  人間だから悲しいのだ

 釈迢空は、折口信夫の歌名。国文学・民族学の泰斗として仰ぎ見られる大学者折口も、息子(養子)の死の前では涙を流す無知蒙昧の親の一人。聖人にもなれずかといって草木でもない人間のその悲しみが伝わってくる。

 戦争を体験した人は徐々に減り、私も戦争を体験したことの無い世代。
 明日生きていることが、当たり前だと思える幸せな時代に生きていることが、自分たちだけの手柄だと思いこまないように、年に幾日かだけでも、辛い時代を思うことが有っても良いのでは無いだろうか。たとえ、想像だけであったとしても。

追記.
季節のページの終戦記念日の箇所に載せる写真は何がよいかと考えた結果、夏空の下のひまわりの写真を選ぶ。いかがでしょう?

追記2.
予定の出張は、台風の影響で延期。この日記を書いているのがその証拠。


困ったことが一つ  (2002.7.22[月])

 現在、困った問題に直面している。それは、明後日からの2週間の出張。行く先は神津島。
 今の仕事は、ほとんど出張とは無縁の部署であるが、他の部署の出張予定者が急病となり、その結果「出張のない部署」の私にお鉢が回ってきた。

 出張は別にきらいではないし、それ自体が問題ではない。問題は「こよみのページ」。
いつもなら出張先でも PHSを使って接続、メールチェックやちょっとした更新作業なら問題ない(夜の時間が自由になる分だけ、更新作業ははかどったりするほど)。しかし、神津島ではPHS は使えないようだ。一般の電話によるダイヤルアップは可能であろうが、今回泊まる場所で接続出来るかどうかはよく分からない。

 最悪の場合、丸2週間かわうそ@暦は、音信不通に・・・。
たぶんこのHomePageを開設して以来、これほど長い間留守にしたことは無い。
メールボックスもパンクしそうだし。
なんとかアクセス出来るいい環境が手に入ればいいのだけれど。


返り梅雨  (2002.7.20[土])

 台風が2つ関東をかすめ過ぎ、夏の暑さと晴れた空を後に残していったと思っていたが、ここ3日ほど再び天気がぐずついた。

 駅に降りると時刻は21:30。いつもより早い。早く着いたことで、駅前の書店をのぞいてみる気になる。
 背負ったバックに読み差しの本を仕舞って店に入る。入り口近くでいつも購入する月刊誌2誌を拾い上げ、その後ざっと狭い店内を一巡。巡回の途中で川上弘美さんの新刊を見つけ、拾い上げる。バックの中の少々堅い内容の本に読み疲れていたので、気分転換に良さそうだ。
 書店を出ると、雨が降り出した。雨を避けようと駅舎に向かう人の流れに足を早めて載る。朝は晴れていたので今日は傘を持ってきていない。歩いて帰るのはあきらめ、駅舎でバスを待つことにした。

 待つ間、駅前のロータリーには次々に車がやって来る。それに呼応して傍らで外を見ていた何人かがその車に向かって駆け出す。何台も何台もの車と、何人ものそうした人の姿を眺めて時間を過ごした。

帰り梅雨の夜 普段のこの時刻の駅で見るのは駅から流れ出す人の姿だけだが、雨の日は迎える人と迎えられる人を見ることが出来る。駅から人が流れ出すのではなく、家に向かうのだという当たり前の事実を実感する瞬間。

 バスが到着し、椅子に腰掛ける。後はバスが家まで連れ帰ってくれる。ほっとしながら外を見れば、雨に濡れた窓ガラス越しに、人を迎える車のライトが続いていた。


雨の昼休み  (2002.7.17[水])

 昨日、関東に接近したはずの台風は、またしても気がつかないうちにどこかへ行ってしまい、昨日の午後からは良い天気。今日も朝の段階では暑い1日になりそうな天気だった。

 普段の昼休みは、外へ走りに出ている。寄る×波に飲み込まれないようにと、無駄な抵抗をしているわけであるが、近頃の外気温は軽く30度を超えており、「無駄な抵抗」も楽じゃない。今日も辛いだろうなと思いながらも覚悟は決めてはいたのだが外をみると、なんと雨が降っている。
街の月 「せっかく、覚悟を決めたのに」などと心にもないことをつぶやいて、本日は合法的(?)にランニングをさぼり、空いた時間でかわうそ日記を書いている。

 日記を書く段になり、仕事で使うPCのハードディスクの中をごそごそと探っていたら「没」になった写真がが一枚見つかったので、使うことにする。帰宅するころには雨が上がって、写真のように綺麗な夕月でも見えれば良いのだがなどと考えながら。


羞じらいの感覚  (2002.7.13[土])

 最近頻繁に使われる言葉の中に、耳障りなものがある。最たるものは、

  「こだわり」

こだわりは「拘り」。拘泥すると。
「つまらないことに拘るな」と言う使いをするのだろうが、近頃は

  「こだわりの一品」「○○にこだわった店」

と、褒めそやす言葉として使われるきらいがある。
自分が何かを追求するとき、人が見れば些細なことであっても「こだわってしまう」気持ちは理解できる。理性では「そんなこと・・・」と判っていても止められない。人間は理性で全て割り切れるほど強くもなく単純でもない。
 「どうしてもこだわってしまいまして」
含羞とともに、こう口にされるとき、その人の拘りを愛さずにはいられない。だが「私は、××にはこだわっています」と胸を張られると、不完全性を羞じらう感覚が欠落しているように思え、辟易してしまう。

 今日は仕事で遅くなり、駅から出ると既に日付は変わっていた。歩いて商店街を抜け、住宅地に入ると人通りも絶える。

夜の公園 
 こだわりについて考えながら小さな公園の脇を歩いて抜けると、青白い街灯に照らされた公園の樹々が目に入った。森の木を切り倒し街を作り、そしてその街にこの公園を作り樹を植える。
 手つかずの自然の中で人間は生活して行けないし、自然と完全に切り離されても生きて行けない。どちらの側の「完全」にもなり得ない人間の羞じらいを公園の樹々に見たのは、直前の思考に引きずられた結果だけだろうか。


茄子のはなし  (2002.7.10[水])

朝の通勤、5分遠回りの通勤経路であるこの道に、近頃気になる存在がある。茄子である。
歩道とビルの境に、広さにして1平方メートルあまりの三角地がある。わずかな土地だが土がのぞいて、誰かが世話をしているのかサルビアや矢車菊らしい花が植えられている。

「こんな狭い土地でも、花を育てる人はいるんだな」、とそれはそれで佳い話なのだが、その赤い花をつけたサルビアの株の間になぜか一本の茄子が植えられている。
何日か雨の降らない日などは水をやっているのだろう、根本だけ黒く湿っていることがあるからきちんと育てられているようだ。実だって4つばかりなっていた(正直、美味しそうには見えなかったけど)。
都会の一画、小さな花壇、花々の間の一本の茄子。ちょっと斬新な風景だと思わない?

そして今朝、斬新な風景を構成する茄子からは4つの実が消えていた。昨日の晩のおかずになったのかな?


七夕の朝  (2002.7.7[日])

五月晴れ朝、目が醒めると快晴の空が窓から見えた。
梅雨の雨空に慣れていた目に、鮮烈な青と白。
五月晴れの七夕の朝。

直ぐに出かける予定なのに、この一枚を撮さないではいられない。
急いでサンダルを履いて外へ出る。

ドアを出て朝日が射す方へと回り込むと、
コンクリートの集合住宅の谷間に生い茂った葦と、
空を区切る電線の向こうに、夏の顔が見えた。


不審者  (2002.7.5[金])

 夕暮れの銀座の街、交番のある通りを一人の男が足早に行き過ぎる。。

 Yシャツにグレーのスラックス、足もとの運動靴が多少奇異ではあるが、夏の繁華街を歩くサラリーマンとして、さほど異常な服装とは言えない。
 背中にはナップサック。これとても最近では不思議とするほどのものではない。ただ沢山の荷物を詰め込んだと見え、ナップサックは大きく膨らんでいる。服装のセンスはお世辞にも誉められたものではない。

 ダサイ(まもなく死語)にはダサイが極普通のサラリーマンと見えるその姿だが、この交番に勤務して2年、街行く人々の姿を見続けた巡査の経験が、その男の姿に「不審」の影を認めた。なかば反射的に巡査は駆け出し、男の姿が人混みに紛ようとした刹那に追いついた。

(巡) 「もしもし、その背中のものはなんですか?」

見れば、ナップサックから凶器とおぼしき黒く長いものが出ている。男は、一瞬狼狽し逃走を考えたようだが、巡査の鋭い目を見て観念したのか、ゆっくりとナップサックを下ろした。もたつきながら凶器とおぼしき物体にかけられた黒い覆いを外し、巡査の質問に答えた。

(男) 「バドミントンのラケットです」

グリップに [yy]と某メーカーのマーク。

(巡) 「いやー、最近凶器を持ち歩く人が増えてましてね、ハハハ」
(男) 「そうですか、凶器をね、ハハハ」

巡査と男の照れ隠しの笑いが、街の喧噪の中に消えていった。

以上、かわうそが「不審者になった日」の実話である(一部脚色有り?)。

追記.
時々、深夜に帰宅する途上で、物陰からかわうそ日記用の写真を撮っている。この行動もかなり不審だと思うかわうそである。そのうち、このコーナーのタイトルがかわうその留置場日記にならないとも限らない。


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