かわうそ日記 ( 2002年11月 ) こよみのページ こよみのページ
銀杏  (2002.11.25[月])

銀杏の葉電車の窓から外を見ていると、銀杏の樹が意外に沢山あることに気づいた。
春から夏にかけては他の木々の緑の間にとけ込んでいたのだろう、近づけばその独特の葉の形でそれと判る銀杏も、遠くからではその存在に気づかない。
それが冬の始まりの今、他には見られない鮮明な黄葉でその存在を際立せている。

銀杏は、「生きた化石植物」と言われるそうだ。1億9000万年前に登場し、世界に広がったイチョウ属の最後の生き残り。他の仲間は既に石と化して地の底に眠っている。

銀杏は別名、公孫樹。現在の全ての木々の祖父とも言えるこの樹には似合いの名である。毎年、黄葉し葉を散らせながら、この長い年月を銀杏はどのように眺めてきたのだろうか。
電車を降りて道を歩けば、私よりも若い祖父の樹がまだ細いその幹の根本に黄色い葉を落としていた。


雨の匂い  (2002.11.22[金])

駅の地下街を抜けて表通りにでると、雨の匂いがした。
顔にも雨粒を受けた気がして、空と歩道に目を向けたが、そこに雨の形跡は無かった。確かに雨だと思ったのだが。

昼休み、いつものように着替えて走りに出る。職場のビルから外へ出ると、やはり雨の匂いがした。
外の空気は冷たい。冬の入り口の冷たさだが、今日は乾いた痛いような冷たさではない。半袖のシャツから伸びる腕を包み込み、肌から浸みてくるような冷たさ。
どこか潤んだようなこの寒気も、雨の訪れの予兆だろうか。

高速道路の高架に沿った道には、黄葉したイチョウの木が並び、風に葉を散らせているが、今日は心なしか吹く風も優しく、イチョウも静かに空を見上げているようだ。

雨の匂いといいながら、それがどんな匂いかと言われると答えられない。目に見えない何かの兆し、それを匂いとして感じるのかも知れない。
街路のイチョウの木もきっと、私と同じ雨の匂いを感じていたに違いない。

追記.
雨の匂いは、臭いでも香りでもない「匂い」。
なぜかと問われても答えられないのだけれど


紅葉かつ散る  (2002.11.17[日])

広島に住むメール友達が、紅葉谷(宮島)の写真を送ってきてくれた。
鮮やかな紅葉を見ることもないまま、いつの間にか行き過ぎてしまった紅葉前線の姿をかわうそに代わって友人が捉えてくれた訳である。
紅葉谷
彼女に許可をとり、その写真を使わせていただいた。写真全体は日記に使うには大きすぎるので申し訳ないと思いつつ、ごく一部のみを切り取っての掲載である。
既に、宮島の紅葉も終わりが近いと見え、葉を落とした枝も見える。

 まま狂へ紅葉かつ散るたまゆらを 高橋とも子

移ろいゆく季節の前では、美しい紅葉も一瞬の後には散って行くもの。ならばその一瞬を狂うほど愛でるのも良い。
同じくたまゆらの間に生きる人間なのだから。


境界  (2002.11.13[水])


杉林の影を伸ばしながら、日は沈もうとしている。
足元にあった杉の樹冠の影が身体を這い昇る。
昼と夜の境界が今、胸元を過ぎて行く。
 
 
茜が秋の夕暮れを表す色ならならば、
冬の夕暮れはどんな色だろう。
地上が昼と夜の境界を越える頃、
空は鈍色に染まり、
季節が秋と冬の境界を越えたと告げていた。



冬の月  (2002.11.10[日])

石蕗今日は寒い一日だった。
朝、たまった洗濯物を洗濯機に放り込み、洗濯の間に2日溜めてしまったメールの返事を書く。
洗濯は一度では済まず、洗濯機から一度目の洗濯物を取り出し、二度目の洗濯物を替わりに入れる。
二度目の洗濯の間は、ここ2週間の間にガットが切れた3本のラケットを取り出し、ひとまず一番気に入っているラケットのガットを張ることにした。
一時間ほどガット張りに費やし、既に終わっていた二度目の洗濯物を干すと既に正午を回っている。
午後からは練習にと考えていたので急いで支度、張り上がったばかりのラケットも忘れずに。

家の鍵を掛けて外に出ると、風と共に雨粒が飛んできた。時雨である。
車に向かって歩き出すと、曲がり角の夾竹桃の根本に一群の石蕗が雨を受けて咲いていた。

練習を終えたのが17時。すっかり雨は上がり、雨雲は何処へ行ってしまったかと思うような空。日は沈んで青空には薄墨が流れ始めている。

有明から湾岸道路を家に向かって走る。行きは40分だった道も夕方は混み合い、CDの曲が2周目を終えようとする頃、ようやく到着。

車を降りようとしたところで、考えを変える。折角なので買い物をしようと、そのまま車で近くのスーパーへ。
食品や雑貨などを購入して店を出る時に、出口近くの棚に柿が並んでいるのを見つけた。引き返して2つ手に取る。
レジへ並んだときは柿の他になぜか切り花の菊も一束。

ずっしりと重いスーパーの袋を下げて車に戻ると、まぶしい街灯の光の向こうに沈みかけた三日月が見えた。
冬の月


街角の屏風絵  (2002.11.6[水])

普段見慣れているはずの風景の中に、以外と見落としているものが多いとある日気づく。
いつも通る道をいつものように歩き、いつものようにエスカレーターを横目に階段を昇ると、いつも見るビルの一画に見慣れない絵があった。

 「こんなところに絵なんかあったか?」

一瞬そう考えた後、絵ではなくガラスに映った風景だと気づく。
紅葉とは無縁の照葉樹の茂った葉に、朝日が反射する様子が、まるで屏風絵のように映っていた。何度となく通ったこの道に、今の今までこんな絵が掛かっていたと気づかずにいたとは。

季節の移り変わる様を時々に写し取る見事な屏風絵、これからはこれも通勤の楽しみとなりそうである。
ビルの屏風絵


雀の取り分  (2002.11.5[火])

連休中、本宅へ戻っていたのでかわうそ日記もしばらく休み。元々週2編くらいのペースの日記なので、休んでいたことに気づかれなかったかな?

連休中、天気も良好。空を見上げては「秋だな」と日に何度言ったことか。
春より幾らか藍の色合いの強い空の色と白い絹雲の織りなす紋様が美しい。
晩秋の稲穂私の好きな田んぼ道を歩くと、刈り取られた稲の株から再び生えだした稲が穂を垂れている。私の生まれた東北では刈り取られた稲株から芽が出て穂をつけることなどなかったから不思議な光景に思える。誰も刈り取ろうともしない稲穂の列を眺めながら、「南国」なんだなと思う。

次の朝、車を運転していると、何羽も鳥が昨日眺めた田んぼのあたりに舞い降り、舞起つのが見える。田んぼに実った稲の穂をついばんでいるのだろうか。
昔誰かから、田んぼに落ちた穂は雀の取り分と教えられたような気がする。田んぼに群がる鳥たちは今、せっせとその取り分を受け取っている。
生まれ故郷の田んぼの落ち穂と、この地の稲穂の量の差を考え、もし来世で雀に生まれ変わるなら、南国の雀になろうと密かに思っている。


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