かわうそ日記 ( 2002年12月 ) こよみのページ こよみのページ
枯れ草と長い影  (2002.12.25[水])

長い影日短の頃。真昼でさえも頼りなげな陽光が、冬枯れた草の上に射している。
頼りなげな陽光は真夏のそれの激しさはなく、いたわるようなやさしい温もりだけを枯れた草の上に送っていた。

冬の日に照らされた暖かな枯れ草はまるで絨毯のよう。
枯れ草が絨毯ならば、絨毯に見事な模様を描くのもまた冬の日。
木立の影が長く伸び、美しい模様を為している。

足下まで伸びた長い影を踏もうと足を動かすと、カサコソと乾いた草の葉の擦れ合う音が聞こえた。


夜景かな?  (2002.12.19[木])

こよみのページを始めてから、デジタルカメラを鞄に入れる習慣がついた。
初の頃は、何かの解説記事で使う写真を撮るなどに利用していたが、そのうちに目に付いたものを撮して、言わば絵日記の絵の代わりとして撮すことが増えてきた。

無目的な訳だから、撮影は不定期。1日で何枚も撮ることもあれば、何日も撮らないこともある。さらに、これをPCにダウンロードして眺めるのも不定期と言うことで、時として
 「これなんだっけ?」
と撮した本人が何を撮したか忘れて首を傾げる写真もある。

左の写真もそうした首を傾げるものの一枚。場所はいつもの公園。しかしこの場所で夜景を撮した記憶はない。
夜のような・・・自らの記憶を探り、写真を見直してようやく正体判明。夜景じゃなくて朝の写真なのだ。何となく光が青みがかり月光を思わせたので気がつかなかったが、公園から道を挟んだ先のビルのガラスに朝日が反射して、公園の煉瓦の道を照らしているのだ。
ガラスに反射した青みがかった光が朝日とは反対方向から差し込んでいるので惑わされた。

本来なら「没写真」なのだが、撮した本人を上手にだました写真に敬意(?)を表して
、日記に使わせていただいた。

追記.
思い出してみれば、自分でもビルのガラスに反射したちょっと不思議な朝日を撮ろうと思った写真なのに。要するに物忘れが激しかっただけのことか。


飛び石忘年会  (2002.12.18[水])

先週の金曜日から今週の日曜日、火曜日と飛び石で忘年会が続いている。
いずれも趣味のバドミントン関係の会。あちらこちらのクラブにお世話になっているためあちらこちらと、顔を出すことになる。短期間に3回の忘年会で、そろそろ忘れるネタもつきてしまったところで、今年は終わり。

あまり飲める方では無いので、何れの会でも始めの頃にビールを何杯か飲んで、あとはノンアルコール系に移行し、もっぱら会話を楽しむのが私の忘年会。同好の集まりの会であれば会話も弾み、あっという間に時間が過ぎて行く。

同じ忘年会でも、仕事関係の会はなんだかんだと言いつつ仕事の話が登場し、「立場」を意識してしまうためか談論風発とは行かない。時間もノロノロと過ぎるようで、楽しい会と言うより苦痛の会になることが多い。

現在の忘年会のような「年忘れの会」は、江戸時代に定着したものらしい。
師走の末には一年の全ての支払いを済ませ、仕事も終えた人たちが集まる会だったようだ。大きな商家などでは、煤払いの日に主人が家族・親戚・奉公人たちと一堂に会して年忘れの膳を囲むのが習わしだったとか。現代の会社の忘年会の原型みたいだ。

古き良き時代の「年忘れの会」では、主人ら「上座」の者たちは早めに座を離れ、以後は奉公人たちだけの無礼講の宴となるように気を利かせてくれたらしいが、現在はさにあらず。上座連が最後まで居座ることも多く、この辺が「苦痛」の種かも知れない。

さて、皆さんの「忘年会」は楽しい会? それとも苦痛の会? どちらだろうか?

追記.
普段から仕事絡みのつき合いはあまりしていない。どうせならと、今年は仕事関係の忘年会は全部断ったため、「苦痛」を味わうこともない。
すっきりしてしまったな。


枯れ葉と冬木の芽  (2002.12.13[金])

十二月も半ばとなり、あたりも大分冬らしくなってきた。
4月から3/4年見てきた、通勤途上の公園も冬支度。アメリカデイゴの木は菰を被せられている。

枯れ葉と冬木の芽前回、結氷を期待して裏切られた池を見ると、あの日水面を埋めていた木の葉は綺麗に取り去れ、広くなった水面が青い空を映していた。
畔には、消えてしまった落ち葉の元となった土佐水木がポツンと立っているだけ。淋しくなった枝に1枚だけしぶとく枯れ葉が着いている。風が吹けばその枝だけ他よりよけいに揺れて、別れの手を振っているようだった。

来春までのしばしの別れにと、近寄ってその葉を撮そうと背伸びをする。と、最後の枯れ葉の脇には萌葱色の木の芽が。
最後の枯れ葉は別れではなく「まだ若い冬木の芽たちをよろしく」、そう挨拶していたのかも知れない。


初氷の朝  (2002.12.11[水])

今朝、起き出すと同時に身震いした。寒い。
昨日の夜、西の空に五日目ほどの月が冴え冴えと見えていたことを思い出す。天気予報でおなじみの放射冷却と言うわけだ。

水面の落ち葉家を出ると目に付く草が白い。霜が降りている。やはり寒かったんだなと思いながら歩き出すと、一昨日の雪が融けて出来た水たまりが凍っている。この冬初めての氷である。
通勤の電車も霜のために遅れ(霜で遅れるとは知らなかった)いつもより20分遅い出勤となる。

職場手前のいつもの公園には、周囲をコンクリートの壁で区切られた小さな池がある。
もしかして凍っていたなら写真を一枚と目論んだが、近づいた池には氷のかけらもなく、代わりに土佐水木の落とした葉が池の半ばまで覆い尽くしていた。
葉に覆われていないわずかな水面には、葉を落とし尽くしして、寒そうな様子の水木の木が映っていた。


冬の一日  (2002.12.10[火])

昨日、関東では各地で初雪が記録された。
記録的・××年ぶりと言う言葉がニュースで踊ったとおり、急に冷え込んできたと思ったら、心の準備も出来ぬうちにどかっと降ってきた。
突然の雪に交通機関のダイヤは乱れて、昨日の朝の通勤は散々。

一夜明けて、本日の東京は晴れ。昨日の雪雲はどこへ行ったか行方知れず。
雪雲は去って晴れているのだが、雪雲を連れてきた寒気は去らずにいすわっており、暖かそうだなと室内から見ていた日差しも、一歩外へでると、寒気を和らげるほどの力は無かったと知れる。寒い一日である。

昼休み、いつものランニングに出かける。流石にTシャツ・短パンは無理。上下のウィンドブレーカーを着込んで外へ出た。
最初は手袋を忘れたことを後悔するほど寒かったが、流石に5キロも走れば帰りは暑いくらい。

走りながら冬の晴れた空を見上げると、雲は無くとも高層には沢山の氷晶が漂っているのだろう、抜けるような青空ではなく、どこか白濁した青空が見えた。
見上げた空へ向かって息を吐き出すと息は白く、自分の体内の水の幾らかが大気へ戻って行く様が見えた。
やがてはこのわずかな水も、空の高みへたどり着いて、見上げている白い氷晶の一片になるのかも知れない。


似ている?  (2002.12.6[金])

言葉も話せないうちから、好みというのはあるものだなと思った。

私の2人の息子がそれぞれ「乳児」を脱してミルク以外のものを口にするようになった頃を思い返すと、長男はジュース類を好んで飲んだ。その延長でか長男は今でも果物類が好物。苺や蜜柑などはそれこそバクバク食べる。

一方、6年遅れで生まれた次男はと言えばお茶が好みらしい。長男からの類推で次男もジュース類が好きかと思って飲ませてみたところ、すごく嫌な顔をする(しかめた顔がおもしろいのだが、それは置いておくことにしよう)。
だいぶいろいろなものを食べられるようになった今でも、果物類は好まず、飲むものはお茶一辺倒。

「どっちに似ている?」とは、子を持つものなら誰しも考えること。この息子2人の好みの違いもやはりどっちに似たのかと、夫婦の間の話題となる。
とすると長男は私、次男は家内と言うことになりそう。ジュースについての好みは似たようなものだが、お茶に関して言えば我が家のお茶のみは間違いなく家内。私は本宅に戻ったとき以外はほとんどお茶を飲まない(最近、ウーロン茶をよく飲むようになったけれど)。

飲み物の好みについて、どっちに似たかと言う問題が決着すると、その延長で問題になるのは性格。飲み物の好みをそのまま敷延すると

 長男・・・私似   次男・・・家内似

となるが、そういう結論に到達したとたんに

 私 「俺はあんなにトロくないぞ!」
 家内「私はあんなに短気じゃないわ」

と否定の言葉。家内の言葉を聞きながら、「そうかな?、似てるぞ」と思って家内を見ると、家内も「そうかな?」と言う目つきで私を見ている。
もしかして、ひょっとして、似ているのかも知れない?

追記.
長男は、よく言えばおっとりしている。悪く言えばとろくさい。
次男は、よく言えば機敏で活動的。悪く言えば短気で癇癪持ち。
それでも、悪い性格じゃ無いみたいだと安心する私は、馬鹿な親である。


雨の一日  (2002.12.5[木])

雨の日の山茶花雨の日、子供の時分は雨の降る日は「嫌な日」だった。
外で遊べないというただそれだけのことなのだが、子供の私にとってはそれだけで十分「嫌い」な理由になった。

いい歳になった今はと言えば、天気に関する好き嫌いは無くなった。というかみんな好きになったと言うべきだろうか。

昨日は雨の一日。子供の頃の「嫌いな日」だったが、今は「ああ雨か」と思うだけ。
雨の日にはまた雨の日の良さがあると思えるようになった。
「大人になった」と言うことなのかな?


遺伝子に操られる日々  (2002.12.3[火])

週末+1日の休みで本宅へ帰ってきた。

ちょっと見ない間に子供は大きくなる。
私の場合はまるでコマ落としの映画のように1月毎に成長の様子を見ているから、「大きくなたな」と会う度に驚く。
流石に上の子は小学生、身体の成長速度は鈍ってきたが、それでも近所の子と遊んでいる様子など見ればちょっと大人っぽく成った気がする。
下の子はと言えばようやく1歳。前回は独りでは歩けなかったのが今では隣の家までトコトコと歩けるほどに(現在の彼の最長不到距離)。成長した成果が如実にわかって楽しい。

どちらの子も人見知りせず愛想がいいので、道行く人によく遊んでもらっている。みんな知り合いに近い田舎であるからさほど心配いらないのだが、都会なら3分と経たずに誘拐されそうな程である(誘拐ではなく、自主的について行くと言った方がいい?)。

ウリボウとツチノコとあだ名の着く2人、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと放浪する2匹を普段から飼育している家内は大変。飼育の苦労話は絶えないが、それでも最後は、
 「でも、かわいいやろう」

とちょっと自慢げ。
ずっと「子供は嫌いだ!」と言っていた私にしても、今や

 「子供は嫌いだ! でも自分の子供だけはかわいい」

と宗旨を変えた。多分細胞内に潜む遺伝子の陰謀に違いないと思いつつも3日間、2匹の飼育の手伝いを楽しんできた。やっぱり自分の子だけは可愛い!

追記.
「自分の子だけは・・・」だったのだが、近頃は自分の子と同じ年格好の子供も何となく可愛いと錯覚してしまうし、小さな子を見れば、「あんな頃もあったな」と可愛くなる。細胞内に潜む遺伝子の陰謀に限りはないらしい。
追記その2.
この件の続編は、1月後にまた?


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