かわうそ日記 ( 2003年04月 ) こよみのページ こよみのページ
朝の緑  (2003.4.30[水])

月並みだけど、新緑の季節である。
緑冬の間は大分寂しかった木々の枝にもたっぷりと若葉がついて、いつも通る道筋の景色も変わったような気がする。

大人と書いて「おとな」である、これは多分人間が動物であった頃からの「大きい=優れている(強い)」という関係がそのまま言葉となり文字となったものだろう。
「大きい=優れている・強い」ということで言えば、多くの木は人間より大きくなる。ちょっとした街路樹でさえもその枝を常々仰ぎ見ている訳で、そのためか木を見ると先ほどの、大きい=・・・という連想が働き、自分が守ってもらえそうな、そんな安心感がある。
冬の木立は「大人」であっても、幹と枝だけの姿から「謹厳実直な男性」のイメージ。それに対して、現在の若葉で枝を覆った木は優しげで、「柔和な女性」のイメージ。

そのためだろうか、朝の道で出会う木立に「いってきます」と手を振ってみたい気持ちが起こる。その昔、手を振ってそうしたように。


泣沢女のこと  (2003.4.26[土])

山振(やまぶき)の立ち儀(よそ)ひたる
    山清水酌みに行かめど道の知らなくに
 高市皇子

泣沢(なきさわ)の神社(もり)に神酒(みわ)すえ
       いのれども わが大君は高日知らしぬ
 檜隈皇女

どちらも高市皇子に関係した歌である。一つは高市皇子が思慕した十市皇女の死に際して皇子が詠んだものであり、一つはその皇子が死んだ後に詠われたものである。檜隈皇女は皇子の妻だったのだろうか。
最初の歌では直接名が現れないが、「山清水」として詠われた泉もまた、泣沢の泉のように思えてならない。

帰りの電車で開いた本でこの歌を読みながら、久しぶりに泣沢の泉の神話を思い出した。泣沢の泉は国産みの神話で知られるイザナギとイザナミの物語に登場する。
火の神を産み落としたためイザナミが死に、その死を怒り悲しんだイザナギが生まれてきた火の神を斬り殺し、イザナミの元で泣き悲しんだ涙から産まれた泣沢女の神の泉だというのである。
本の著者は、この二つの歌の解説の中でこの神話を紹介し、「妻の死を悲しむ夫の神が流した涙から生まれたという美しい物語」と結んでいた。

泣沢女の文字を目にして、その昔この神話を知ったときに感じた、疑問が再びわき出し、思考は本の内容を離れて、電車を降りてもその疑問ばかりが頭を占めた。泣沢女は、本当にイザナギの涙から生まれた神なのだろうかと。

最愛の妻を失ったイザナギも泣いただろう、またそんな夫を残し、多くの子を残して死んだイザナミも泣いたかもしれない。だがその二人以上に気になるのは、イザナギにより殺される火の神のことである。
火の神を産んだことで母神イザナミは死んだが、だからといって、

「あまたの神々の、その一人に過ぎないお前のために、
 かけがえのない、尊いイザナミがなぜ死ななければならないのか」

そう言われて、父神に斬り殺された火の神は、泣いてはいけないのだろうか。

神の涙から生まれた泣沢女は、いったい誰のために泣いているのか。もしかしたら自分の生まれに関わった全ての神を思って泣いているのだろうか。
泣沢女の神という美しい名の神から続いた連想は、どこまでも繰り返して出口を失ってしまった。
涙滴


夢のはなし  (2003.4.23[水])

風邪が長引いている。かれこれ3週間以上も引き続けている。
鼻水と頭痛、微熱が続き、つらいと言うよりは不快な状態である。
洟のかみすぎで、鼻の頭がひりひりするような気がする。

今朝は珍しく、夢を見た。
虎の夢である。
あたりは、どうやら日本の山。
すぐ近くを河が流れている。
「度合」と呼ばれるような場所だ。

その場に潜んで、虎が通りかかるのを待ち、
ちょっと旧式の「鉄砲」と呼びたくなるような銃で虎を撃った。
子供を連れた虎の親だった。
急所を外したかもしれないと言う恐怖と、
子へ肉を与えられなくなると言う思いを感じた。
いつの間にか、目は自分に向いた銃口を見ていた。
私は虎を撃ったのだろうか、撃たれた虎だったのだろうか。

目覚めると、雨を含んだような雲が見えた。
朝のうちに降り出すかもしれない。
夢の中の感情を引きずっているのか、気分が悪い。
熱を測ると37度2分だった。


ぶり返し  (2003.4.16[水])

治ったと油断したのがいけないのか、また風邪がぶり返してきた。
一昨日の夜から兆候はあったのだが、「治ったばかりじゃないか」と気のせいにしていたところ本日は、午後から本格的に。

前回の風邪薬があるので飲んでみたがいっこうに効果無し。
今日は、早く帰ろうと夕方までは思っていたが、肝腎の帰宅時間になると発熱のため「動くの嫌!!!」という状態に陥る。
ここでじっとしていてもよくなるわけでは無いのに、うだうだと時間が過ぎてしまった。

いつまでもいるわけにはいかないと言うことで、ぐずる自分の体に鞭打って、この日記を書いたら踏ん切り着けて帰ることにする。
明日仕事に来られるかな・・・・。

皆さんもぶり返しには気をつけましょう。
以上、38度8分のかわうそでした(←平熱が高い訳じゃ無いぞ)。


チューリップ咲いて  (2003.4.13[日])



チューリップの花が咲いた
子供の頃に画用紙に
赤と緑のクレヨンで一筆書きに
花を見もせず書きなぐった花

春の花壇を賑やかに飾る原色の花
春のにぎわいにと
冬に植えた球根から
葉が出て茎が出て花が咲いた

子供の頃に花も見ず
一筆書きしたその花を間近に見る
うすい黄丹の花弁の中に
大切な何かを隠しているように
ためらうように開いた花を

目を向けてみれば
一つ一つの花がそれぞれの
繊細な表情の違いを見せている
賑やかなだけの花じゃないと
今頃やっと気がついた



勤務時間前の記(?)  (2003.4.10[木])

昨夜は職場の、歓迎会。ほぼ半数が入れ替わってから初めての顔合わせである。
場所はつい先頃送別会をした店、部屋まで一緒。到着したものから空いた席に適当に座ることになったため(上下の関係の希薄な職場である)、席まで一緒になってしまった。
違ったことはと言えば、前回は寒い夜だったが、昨夜は「五月の陽気」と言われた晩で、コートを羽織って歩くと奇異な感じがすることくらい。
一次会が終了すると早々に店を出て、後続に捕まらないようにさっさと帰宅。宴会のあった日の方が帰宅時間が早い私の生活である。

家に帰って、とあるページの外見を手直しを始める(とあるページがどこかは、探す楽しみと言うことで秘密)。
何か、久々にHPの管理をしている気分でうれしい。
いくらか直したところで、急に眠くなりちょっとのつもりで目を閉じたら、いつの間にか夜が明けていた。
明るくなった外の様子に気が付くと同時に感じた、異様な静けさ。
いやな予感である。目覚めたときこの異様な静けさを感じたときは、まず例外なく寝過ごしている。時計に目をやると案の定である。

あわてて出勤するも、ほぼ1時間の遅刻は確定。
焦ってみてもどうにもならないので1時間「時間休」をいただくことにして、落ち着いて出勤。普通の人より1時間早い勤務としているため、職場の玄関をくぐっても傍目には普通の出勤に見えたと思う(守衛さんは、「おや?」と思ったかもね)。

「1時間の時休」のため、残りわずかとなったが今のところまだ勤務時間外。無駄なく使って朝の内に本日のかわうそ日記が出来上がってしまった。


全快  (2003.4.9[水])

よくなったり悪くなったりしながら2週間ほど続いた風邪もどうやら全快したようだ。
昨日は昼休みはランニング、夜のバドミントンという「普通の生活」に戻れた。
よかったけれどやはり病気の間、体が大分変化したようで、足はふらつくし汗はびっくりするくらい出るし、こちらの完全復調には今少し時間がかかりそうである。

変わったと言えばもう一つ、2週間前には木蓮(辛夷と言いたいが、町中ではなかなか見られない)が咲き出し、梅もまだ残っていたのに、今では桜も盛りを過ぎ、替わって石楠花や躑躅が満開に。
風邪でふらふらしている間に、季節において行かれてしまった気がする。

体の復調に併せて、頭の中の季節感も復調させないとね。


桜並木  (2003.4.2[水])

夜桜の並木帰りが遅くなり、12時を少し回った頃に駅に着いた。
夜になるとまだ空気は冷たく、先週ひきこんだ風邪が抜けない体が冷気に反応して、咳き込んでしまう。
多少熱もあるようで体がだるい。家までの歩いて15分の距離が今日はえらく長く思える。

とぼとぼと、いつもより多少時間がかかって家までの距離の半ばまで歩くと、桜の並木道に出る。
普段は、わずかな街灯が並ぶだけの薄暗い道だが、桜の花の時期となって道沿いにスポットライトが並び、夜空を覆うような桜の花を照らしていた。

夜も更け人通りも途絶えたこの道。体の具合はまだ悪いままだが、それでもただ行きすぎるには惜しい。
  「少しだけ」
そう言い訳するように、カメラを取り出した。


白木蓮  (2003.4.1[火])

白木蓮今日から四月、東京もすっかり春らしくなり、今までの習慣で出がけに羽織ってきたコートがそぐわない陽気。
桜の花も七分先、週末になれば桜の名所は花見客でごった返すことだろう。

春はいろいろな花が咲き出してにぎやかだが、「花と言えば桜」と言われるだけあって、桜が咲き始めると注目はそちらへ集中して、同時期に咲く花はやや影が薄い。

影が薄い花の一つとして、本日は木蓮の花の写真を載せてみた。実を言えば先週に写した写真だが。
桜の花のような艶やかさはないが、大きくふっくらとした花形と柔和な色合いが、おっとりした大人物といった印象の花。
朝日を背にし、白い花弁が日に透けた木蓮の花は燭台を飾る蝋燭のように見えた。

それから数日、週が開けてまたその木の前を通ると、どうしたわけか一つの花も残っていない。洗ったように何もない。
週末、風が強かったと言う記憶も無いし、どうしてこれほどきれいさっぱり消えてしまったのだろうか。
花を無くした木蓮の隣には、見頃になったしだれ桜の木、木蓮に背を向けて桜の花の写真を撮る人がいた。


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