かわうそ日記 ( 2004年03月 ) こよみのページ こよみのページ
花見に行きました  (2004.3.29[月])

山桜の花
3/28 晴れ。

和歌山の桜には少々早い時期であるが、次回の帰省は一月先になるので、今のうちにと花見に出かけた。
海に近い場所では山桜は早々に散ってしまっていたが、川沿いの道を上流に向かって車を走らせるうちに、山の緑の間に点々と花の残る桜の木が現れてきた。
暖かな日の射す日曜日、花見客で混み合う様子を想像しながら、目的地である桜の名所に到着すると、予想に反して閑散とした情景。
それもそのはず、染井吉野の花には時期が早すぎるのか、気の早い枝にいくつかの花がついているだけ。

桜も少なく人はもっと少なかったので、弁当を広げる場所には事欠かなかった。ちらほらと咲いた桜の木の下で弁当を食べているとどこからか風にのって花びらが流れてきた。どこに咲いている木があるのかと風の方向を探ってみると、谷地となった急傾斜地に生えた一本の山桜がちょうど盛りの頃合いであった。
山の碧、水の翠、そして一点の紅。あたりを埋め尽くすような満開の桜のもとでの花見も良いが、翠の中に一本浮き立つ桜を眺める花見もいいものだと思った。


リンクの話(再び?)  (2004.3.25[木])

Web は元々蜘蛛の巣を表している言葉という。こよみのページもしてみると、その蜘蛛の巣の結び目の一つである。
どこからか、別の糸が結びつけられ、また自らも新しい糸を伸ばしてよその結び目と自分とを結びつける。結び目が結び目としてあるためには、糸が絶対不可欠である。

この不可欠な糸がWeb の世界では「リンク」と呼ばれる。糸が無ければ結び目は出来ず、蜘蛛の巣は張れないように、リンクのを否定してWeb の世界は成り立たない。
誰でもが接続出来るインターネットの上にWeb サイトを開いたとすれば、それは誰からリンクされても構いませんと意思表示をしたのである。
と言うことで、近頃不思議に思うリンクの話を二つ。

●リンク禁止サイトの不思議 
以前から不思議で仕方のないことをまず一つ。
時折、次のような断り書きを見かけることがある。

 「このサイトへの無断リンクは禁止します」

おかしい。仮にこの断り書きをしたサイトを「A」としよう。
この不思議なメッセージを読んでいるということは、私は既にどこかからAにたどり着いたはずである。多くの場合は、リンクをたどって。

Aへは、「B」というサイトのリンクから入ったとする。Bには、こんな非常識な書き込みは無いとすると、私がBへのリンクを張り、いつでも、B→AとリンクをたどってAに入れるわけだ。これに関してAに文句を言われる筋合いはない。

 悪:こよみのページ → A    × Aが怒る 
 善:こよみのページ → B → A ○ Aは怒らない 

直接にAにリンクを張るのと、AにリンクしたBへリンクを張るのとクリックする回数の差以外にどんな違いがあるのか?

リンクを張られてはまずいページなら、リンクが張れないように工夫するべきである。
リンクを絶対禁止にしたいと願うなら、一番手っ取り早い方法はインターネット上にサイトなど作らないことである。
(多くの場合、このような「禁止サイト」に、リンクしたいと思うほどの情報があると言う場合は大層希なので、リンクが禁止されてもさして実害は無い)

●相互リンクしてください 
ある日、リンク希望のメールを受け取った。

 ○○というサイトから、こよみのページへリンクを張らせて頂きたい
 と思いメール致しました。また、よろしければ相互リンクもお願い
 したいと思います。

これに対して、私は次のような返信をしました。

 リンクしていただく件は了解致しました。
 当方からのリンクは、貴サイトをまだ十分拝見しておりませんので
 拝見後、リンクさせていただくかどうか、判断させていただきます。
 リンクさせていただく場合は、また連絡致します。

先方からの返信。

 連絡ありがとうございました。では、こよみのページからのリンクを
 確認致しましたら、こちらからもリンクさせて頂きます。

なんか、話が違うんじゃない?
最後にいただいたメールを読んだ瞬間に、リンクする気は失せました。

私がよそのページへリンクしようと思うのは、
  • 自分がよく利用するサイトだから

  • 自分にはない情報をもつサイトだから

  • とにかく人に紹介したいサイトだから

等々、はっきりした区別はつけにくいものの、その価値を認め、ある種の「尊敬の念」を抱くからである。
サイトポリーシーにも書いているが、自分が気に入ったサイトへリンクを張り、向こうも自分のサイトを気に入ってくれてリンクしてくれたという、「結果的な相互リンク」はサイトを開いているものにとっては、最高に嬉しいことであるが、「前提としての相互リンク」は願い下げである。
かわうそはへそ曲がり。かわうそ宛に「相互リンクをお願いします」というメールを書くのは逆効果です。注意しましょう。

アクセス数アップの方法として「相互リンク」をと声をかけてくる人が多いが、それだけの為の相互リンクは、アクセス数のアップにも結びつかないと思う。また、いくらかのアクセス数アップ効果があったとしても、それは別のサイトへの通過点となっただけのことで、自分のサイトを目指してくる人が増えたというわけではない。
物事、本質を外れた小手先の業は、所詮小手先の業だと肝に銘じましょう(自戒かな?)
先日、「相互リンク」について人に尋ねられたことがあったので、何となくリンクの話を書いてしまった。日記というか・・・まあいいさ。


真っ二つに  (2004.3.22[月])

真っ二つのラケット昨夜ラケットが折れた。それも真っ二つに(右写真)。
ラケットが折れるのはままあることではある(年3〜4本)が、こうも見事に折れたのははじめてである。

土曜、日曜と試合。日曜は試合が終わるとすぐに地元の練習に駆けつけてコートに入っていたのだが、折れたのは、その練習で。
ダブルスをしていて、パートナーとの中間を抜けるシャトルに対して、同時にラケットを出したためにラケットが衝突して折れたのである。ラケットが折れる原因としては一番多い状況である。
あたった瞬間、

 「やってしまった!」

とわかった。ラケットが不思議な形になったから。
ゲーム中だから、すぐに別のラケットに替えてゲームを続け、ゲーム後にもう一度見直してみると、ラケットのリングの部分が完全に2つに分離していた。ガットがあるので、バラバラにこそなっていないが、ものの見事にへし折れている。

幸いというのか、何というのか、練習しているそのクラブにはラケットショップの人間や、ラケットメーカーの人間が揃っているので、早速

 「安くしておくよ!!」

の声が掛かる。「持つべきものは友達だ」と言うつもりは無い(人の不幸を商売の種にしやがって!)が、どっちにしても買わないといけないので、商談開始。
確かに、かなり安くしてくれるので注文したが、それでも2万円程度の出費。
仕方ないけど。

その場に捨てて帰るわけにもいかないので、折れたラケットは自宅に持ち帰った。持ち帰って再度見ても、ここまで綺麗に折れてしまうのも珍しいと思えるほど。
今後はもう少し注意しようと言う、自戒の念を込めて写真に折れたラケットの姿を記録し、本日の1枚とした。


緑立つ季節、緑立つ時  (2004.3.17[水])

そろそろ季節のページの来月号を作らないといけない時期に来てちょっと焦る。
その昔、「エイッヤッ!」と作ったデザインのまま今に至っているページだが、大規模な修正は当分できそうもないので、季語や写真を少しずつ入れ替えて気分を変えることにしている。

先週末は和歌山に帰っていた。本宅は本州最南端にほど近い位置。温暖なだけによそより一足早く季節が巡ってくるようである。その上、北には山、南には海、その間の狭い平地には田んぼが広がるこの場所は、季節のページ用の写真を撮るにはもってこいである。

さて、四月らしい何かいい言葉はないかなと考えるうちに浮かんできたのは、「緑立つ」
若葉の広がる山を見ていて思いついた。松の新しい葉が伸びる様を表した言葉である。春らしくていい。
土日の家族サービス(?)の合間、この言葉に合わせるための松を写しに出かける。裏の山へは歩いて3分。

子供の頃の記憶からいえば、里山の主役は松。所は福島から和歌山に変わってもそんなに変わるわけは無いとおもった。
ところが、すぐに見つかると思った松の木がない。あちこちと探してみたが見あたらない。そういえば昭和30年代の松食い虫の大発生でこの近辺一帯の松が全滅したと聞いたような気がするが、本当のようだ。
いったん引き返して作戦の練り直しと、山を後にする。

玄関を入り、「松の木が無い」っといったと同時に、松の木の在処を思い出した。海だ。
入ったばかりの玄関を出て、

 「ちょっと海まで、松を撮りに行ってくる」

と言って再出発。海までは歩いて10分+α。山よりは遠い。
海に近づくと、防風林用の松の並木があった。さらに先の磯にも点在する岩の上に、根を張った松が見えた。よしよし。

潮が干いた磯に出て、岩によじ登って松の写真を撮る。
写真を撮り終えて立ち上がると、岩のざらついた表面に靴底が食い込み、傾斜があっても思いの外足場はしっかりしている。ちょっとした張り出しを利用して、岩の上をヒョイッヒョイッと跳び回ってみると、なんだか楽しい。
河原の石の上を跳び歩いた、子供の頃の快感を思い出した。

緑立つ少しの間、快感に浸って跳び回っていたつもりだったのだが、その間に陽の光は茜の色を帯び始めていた。風は山から海へと向かって流れていた。
帰えろうと、岩場を離れ防潮堤へと向うその途中、水平線に近づいた陽の光が足下に生えだした草の若葉を照らしている光景を見た。

 「緑立つ」

この言葉が似合う光景が、もう一つ見つかった。


文明開化  (2004.3.16[火])

三月半ば、先週末は月一度の和歌山への帰省。紀伊半島の南端部にある家の周囲では鶯が鳴いていた。
先月帰った際に、ひょんなことから家内が、

 「コンピュータを、自由に使えたらエエナー」

と言うようになった。今まではコンピュータを恐れていた感のある家内の180°の方向転換。多分小学校に通う息子が授業でコンピュータをいじるようになり、それが楽しそうだから自分も何となく触ってみたいという気分になったらしい。チャンスである。

 「知○(息子)も使うかもしれないし、いい機会だから家族用に1台買おう」

と言うことで、早々に注文。今回の帰宅1週間前には1台のノートPCが自宅に届いたと連絡あり。これで、毎回帰るたびにノートPCを持参する必要が無くなる。楽になる・・・。

 「お父さんが帰ってくるまで、箱に入れたままにしてあるから」

というありがたい配慮のもと、帰宅早々にセットアップ。家族一人一人用の設定などをする。
最後に自分用にいつも使っているエディタやコンパイラなどをセットしようと、持参したUSB接続のポータブルのHDDを取り付けたところで問題発生。なぜかデバイスドライバのインストールがうまくいかない。何度やっても途中でフリーズ。
AUTORUN.INFの内容を開いて、手動で行ってもやはりダメ。

今回の帰省では、メールやHP関係のデータや必要なソフトは全部このHDD に入っているので大丈夫と思っていたために、結果的にメールの返事は出せず、HPの更新も出来ず。予定が狂ってしまった。

私にとっては、まだ「使いにくい」状態のコンピュータではあるが、家内や息子には刺激になっているらしい。刺激と言ってもWindows付属のゲームがそのほとんどではあるが、使われずに埃をかぶるよりはまだいいかと思っている。そのうち別の使い方もするようになるだろう。

先行きいろいろ不安もあるが、「我が家の文明開化」である(?)。

追記.
家内と長男はゲームという使い方を覚えたばかりだが、下の息子(2歳)だけは他と違った楽しみ方を発見している。「壁紙」である。
彼の名前でログインしたときの壁紙を、熱帯魚にした。彼が「おさかな」好きだからである。
彼の好みで魚の壁紙を選んだことは成功でもあったが、ある意味では失敗でもあった。
壁紙を指さしながら(背が低いので、ぴょんぴょん跳びはねながら)、

 「おさかな! おさかな!」

と嬉しそうにしている彼を見ると成功したと思えるのだが、その画面で何かソフトを起動し、開いたウィンドウが壁紙の「おさかな」を隠すと、「おさなかッ!!!」と怒って叫ぶ。大好きな魚の画像が見えなくなるから。
と言うわけで、次男の名前でログインしたときは、「壁紙表示」以外に使うことは出来ないようである。


桃の花ひらく  (2004.3.9[火])

桃の花開く

梅・桃・桜

春に咲く花は多いが、分けてもこの三種はその代表格と言えるのではないだろうか。
生まれ故郷の近くに三春という町があるが、その町の名の由来は梅・桃・桜が同じ時期に咲く里であることから、三ッの春が同時に訪れる里、三春の里となったと聞いた記憶がある。それぞれが春を代表する花と考えられていた証左である。

二月の半ばより咲き始め、早春の季節を彩った梅が三月に入り、花を落とし始めると、それに替わって桃の花が咲き始めた。
梅の花は、晴れても曇っても、雨の中でもそれぞれに梅の花であるが、これに替わった桃の花には、なぜか曇り空は似合わない気がする。春の陽を浴びて溌剌と輝く、それが桃の花本来の姿の気がする。

桃の節句にはやや遅れてはいたが、咲き出した桃の花が、春の日射しを連れてこの街にもやってきた。
そして、季節は早春から仲春へと遷ってゆく。

ほうほうと声あげて桃花ひらく 大井雅人


空の色から  (2004.3.5[金])

春のロウソク空の色が違って見えるのは、見るものの気持ちが変わっているからだろうか。

 「春」

とただそれだけの言葉で、心が浮き立つ。
道を歩いていても、視線は自然と足下から離れ、頭上の空へと向かう。
街路樹の枝越しに、高層ビル越しに見える空の色に、季節の変化が見える気がする。

一月前は寒々とした枝だけだった木に、今は蝋燭のような白い花がつき、生きた燭台となって春の空を照らしている。

 春は万物が発(は)るをもって「ハル」なり

始まりの季節である。


梅の花影  (2004.3.2[火])

雪を見ることのなかった冬と思っていたら、三月に入ったその日に寒の戻りで東京に雪が舞い落ちた。
寒い一日だった。

帰宅が遅くなり、駅に降りたときには帰りのバスがなくなっていた。歩いても20分少々の距離だが、寒い夜にはその20分が厭わしい。
仕方がないと、身震いを一つして歩き出す。雪も雨も止んでいたことは幸いだった。

歩き出したときは、暖かい電車の暖房になれた身体に寒さが浸みたが、なれてくると思ったほどつらい寒さではなかった。
梅の花影いくらか濡れたアスファルトの路を歩くと、足音が吸い込まれてしまうようでいつも以上に静かな街の夜。寒さが気にならなくなるにつれ、久々の夜の散歩が楽しくなり、経路をはずれて路地裏の探検を始める。
街灯と、所々にまだ点いている家の明かりにぼんやりと浮かび上がる街は、まるで初めて足を踏み入れた場所であるかのような錯覚を与える。

 春の夜のやみはあやなし梅の花
   色こそ見えね香やはかくるる
 凡河内躬恒

板塀を巡らせた一軒の家の前を通ると、微かに梅の香りがした。立ち止まり、塀越しにその家の庭をのぞき込むと、かすかな明かりの漏れる窓を背に、影絵の中に梅の花が咲いていた。
色こそ見えね香やはかくるる。

最終のバスに遅れて得をしたかもしれない。


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