かわうそ日記 ( 2004年04月 ) こよみのページ こよみのページ
落とし物一つ  (2004.4.19[月])

八重桜朝歩いていると、沢山の桜の花びらが歩道のあちこちに吹き溜まっていた。
平日は毎日公園管理の方が掃除しているのであまり目立たなかったが、土日の間は管理者も休みらしい。

一週前には散ってしまった普通の桜に比べて今回の花びらは紅の色が濃い。八重桜の花が散って出来た花びらの吹きだまりである。
花びらの吹きだまりとはまた春らしい。踏みつけないように避けて通ると幾つ目かのそれの上に花房のままの桜が落ちていた。

落ちて間もないのかさほどしおれてもいない。
誰かが折ったものなのか、風が落としたものなのか。
届けるあてもない落とし物が一つ。目立たぬように拾って仕事場まで持ってきた。
今は机の上の、コップの水にプカンと浮かび、少しだけ延びた花の時間を過ごしている。


春の続き  (2004.4.14[水])

りんごの花今年は例年に比べ倍以上も長かったと言われる東京の桜の花期、それもそろそろ終わりの時期となり、頭上よりも沢山の桜の花が足下に見える。
花が落ちて、これからの季節は葉っぱが桜の木の主役である。

花と言えばと言われるほどの桜の花が姿を消すと、桜の陰で霞んでいた花々が姿を現してくる。
今日目にとまったのはりんごの花。

 これも桜? 

と思えるほどよく似た花型(白くてやや大きい)。
確か冬の初めまで小さな実をつけていたから、姫りんごの木だろうか。
見ようによっては、その実もサクランボに似ている気がする。

思えばどちらもバラ科の木。いとこ同士が似ているようなものだろうか。
黒々とした樹皮の枝に、淡紅の蕾と白い花。
桜が散っても春は春。


回転扉・最後は理不尽な話を一つ  (2004.4.8[木])

前回の第二話で、話を横道にそらしてしまったので、今回は元に戻す。戻すついでに、第一話で、自分でも混乱していた点も修正したいと思う。

まず「混乱してしまった」ことについての修正をしよう。
今回の事件があって以後、多くのニュースは事故の原因は何か、その責任は誰が負うかという責任論に終始している(更に、ほとんどがビル側の責任追及である)。
私もついこの風潮にのって、責任論めいたことを書いてしまったが、よく考えてみると今問題にされる多くの事柄は、事故の遠因であっても、最後のもっとも核心に近い部分では無いのである。

 「罪もない子供の無惨な死」

に類する記事をこの事故の後もよく見かける。紋切り型の陳腐なフレーズであるが、この言葉に死というものはある種の刑罰であるという観念が見え隠れする。

 罪を犯す(原因) → 報いとして死がある(結果)

こう考えると、罪のない子供が事故死すると言うことは、この因果律に背く理不尽なものだということになる。更に事故の結果が何らかの刑罰的なものだと捉えると、正しい行いをする者は、罰を受けるはずがない。

今回の事件で犠牲者は罪のない子供である(私が、「罪がない」と思っていないことは既にご存じと思うが)。

 1.罪がない子供に刑罰としての死が訪れるのはおかしい。
 2.真犯人は他にいて、子供は誤った裁きの結果、処罰されたのだ。
 3.真犯人を捜し出して、この誤った裁きをたださなければならない。
 4.真犯人は、欠陥のある扉とそれを採用し杜撰な管理をしたビル側の人間だった!

こういうストーリーが、多くの人の胸の内に出来上がっているのではないか。そう考えるとビル側に対する世間の追求が、苛斂誅求と言っていいほどである理由が納得できる。
そして、真犯人が捕まったのであるから、このような犯罪的行為は以後なくなり、罪のない子供が再び事故に遭うことはなくなる。そういう幻想を抱くことも、説明出来そうだ。

もしそう考えているとしたら、大きな間違いがある。それは世の中全てが人間の考えたルールに従うわけではないと言うことである。事故を何かの行為に対するもの、「罪と罰」いう形で捉えると、「正しいことをする者に罰は降らない」ことになる。ごく希に裁きの誤りがあることをのぞけば。ここには人間の考える「理」が存在するわけだが、実際の事故は理不尽なものなのである。

なぜこんなことを言うかと言えば、誰が悪いと言うことがなくとも事故は起こる。今回の扉に欠陥があったのか否か、管理に手落ちがあったのか否か、子供の行動に問題があったのか否か、そういった事柄と無関係に事故は起こる。

責任の所在を問題にすることは、人間のルールの中では重要な問題ではあるが、今まさに扉に挟まれそうになっている人間にとってはその議論は無意味だ。そのとき重要なことは、いかにして迫り来る扉を避けるかと言うこと。

事故の内容によっては、当人の責任が重いと言うのが酷に思えることあるが、それでも事故が起きるか否かのぎりぎりの瞬間においては、それを回避できるものは自分をおいて他にないのだから、避けられないとしたら、避けられなかった責任はあるはずだ(どんなに無茶な状況であっても)。この場合の責任は人間社会の道義的責任と言うより、自分の命に対する責任だ。失敗すればその代償は命になるかもしれないのだから。

私の息子の一人は8歳である。今は減ったが6歳当時は、食事の際に

 「お母さん、これ熱くない? ねぇ熱くないかな?」

と料理について何度も訊くことがあった。甘えてみたかったからかもしれないが、私がいると彼は叱られることになる。熱いかどうかは、自分で確かめなさいと言うわけだ。熱すぎて食べられないと自分で判断すれば冷めるまで待てばよい。当たり前のことだが、自分で判断する習慣をつけぬまま成長してしまったら大変だ。

「危険・注意と張り紙がなかったから、安全だと思った」に類する悲喜劇が起こってしまう。人間のルールではこういった手合いにも救済の手段は講じられるべきかもしれないが、理不尽な物理法則はそうは行かない。

閉じかける大きな重い扉があれば、それに挟まれる危険性は、子供だろうと酔っぱらいだろうと、転がっているペットボトルだろうと同じようにある。その危険性に立ち向かうことに関しては、子供だろうと酔っぱらいだろうと同じだけの責任がある。
弱者だとか強者だとかそんな人間社会のルールの中でしか通用しない論理は、ルールの外では吹き飛んでしまうものだと考えて行動しないと、その代償は自分の命で支払うことになる。

●最後に
今回の事故で、「その責任比率は7:3で、子供の側が重いと思う」と書いたことにいろいろな批判をいただいた。人間社会での事故に対する道義的な責任の側面から見た批判だったようだ。

だが私は、亡くなった子供の自分の命に対する責任を思うと、やはり7:3より子供の責任を軽く見ることは出来ない。彼は自ら回転扉に走り込み、そして迫りくる扉の回避に失敗して死んだのだ。彼は自ら危地に飛びこみ、危険回避に失敗した。
生物として、自分の命を守るという根元的な視点からすれば、亡くなった子供の責任は、その事故が起こるかもしれないとう可能性を作り出しただけのビル管理者より大きいと言わざるを得ない。

扉が「改良」されるのは良いことだろう。だが自分や自分の子供たちを思えば、いつ出来るかしれない絶対安全なものの出現を待つより、今ある危険に自分で対処する知恵と訓練を積む方がずっと効果のあることに思える。そう考えるから、当事者の責任を重く見ているのである。
子供が死んだ後で、その責任をとやかく言うより、子供が生き続けることをこそ喜びたいのだから。

今回の「理不尽な話」は、一番重要な話だと私は思っているのだが、一番説明が難しい話でもあると思う。
多分私の説明で、納得してくれる人は少ないだろうなと思うけれど、書かないわけにも行かないと思い書いてみた。

今回の3回の話について、メールしてくださった方には、少々時間が掛かると思いますが返事を出します。


回転扉・もう一回り  (2004.4.5[月])

No.425に「回転扉」を書いたときに、きっといろいろな反応があるだろうなと思っていた。予想通りというか、掲示板に幾つか書き込みがあり、その中でそのままにしておくのはどうかなと思うものもあったので、補足の書き込みです。日記かな?とはおもいながら。
前回の書き込みの時点で、あの事故には子供とその保護者側に、扉の管理者や製造者より大きな責任があると書いた。そうすると、「今一番つくらい思いをしているのは当の子供の保護者であり、それを責めても子供が還ってくるわけではない」という反応があった。

当たり前である。「死んだ子供が還ってくるのか」と言い出せば、扉の管理者等の責任を云々したところで、同じこと。還ってくることは無い。今後同種の事故を減らすには何を考えるべきかという点で考えているのである。

「確率の話ではないのか?」 
>>1万人に1件の事故は果たして「恐ろしく高い事故率」なのだろうか

と書いたことに対して、

>確率の問題ではなく、最初に起きた事故を重視して改善すれば良かっ
>たと思います。そうすれば33件の事故は防げたのだから。
>車でも家電製品でも不良部分があれば回収されるのですから。
 (「回転扉」2004/4/4 月夜さんの掲示板への書き込みより)

がありました(文章の前後との関係もありますので、出来れば月夜さんの全文をお読みいただきたい)。
私はこうは思いません。確率の問題です。最初に起きた事故をきっかけに改善したとしても100%安全な機械が作れるはずは無いので、以後の33件の事故が0になることは無いのです。「33件の内の何件かは防げたはずだ」というのならわかりますが。これは、

1/1万 の事故率を 1/10万 の率にすることは出来る

ということで、やはり確率の問題です。
仮に通過する回数の1/10の確率で事故を起こす扉があれば、すぐさま取り替えられるでしょう(あるいは誰も使わなくなる)。これが1/10億の事故率なら運用期間中一度も事故を起こさないかもしれませんが、たとえ1/10億の事故率のものであっても、最初の1人が事故に遭う可能性もあるのです(1/10億でね)。

ちなみに、既に33回の事故があったのに34回目が起きるまでなぜ放置したのかという話もありますが、34回目は死亡事故、他に大腿骨の複雑骨折という大けがが1件ありますが、他の32回は、軽い打撲や出血といったものであったと言うことも考えてください。
我が家にも2人子供が居ます(8歳と2歳)。この数ヶ月の間に2度、扉に指を挟み内出血しました。回転扉でも自動ドアでもありません。家の普通の「扉」です。そして、ごく普通の反応として、
 「大丈夫か?・・・もっと注意して戸を閉めなさい」
となるわけです。事故はどこででも起きます。そして打撲程度の事故は日常生活において頻繁に起こるありふれたことです。子供があわてて扉を閉めて指を挟んだ後も、私は扉を取り替えないといけないとはついぞ考えませんでした。かわりに「もっと注意しなさい」と子供には言いますが(2歳の方には通じていないと思うけど)。

「事故は、扉の欠陥で起こったのか」 
今回の事故の原因の一端として、回転扉の「欠陥」があったかもしれません。「かも」は、私が回転扉の専門家でないので、本当にそうだったかどうか言い切れないからの「かも」です。
自動ドアについての事故について調べていると次のサイトの注意事項が目にとまりました。

 「生活安心情報提供サービス」
 http://www.life.pref.ishikawa.jp/

>注意する点としては
>1つ目に、自動ドアは正面から通過する。
>2つ目に、ドアが完全に開く前に駆け込んだり、閉じかけたドアに無
>     理に侵入しない。
>3つ目に、高齢者や障害者には、できるだけ周囲の人がつき添う。
>4つ目に、ドアの間で立ち止まらない。
>5つ目に、ドアの付近では絶対に子供を遊ばせない。
>最後に、自動ドアにもたれかかったり、手を当てたりしない。
>などの注意が必要です。
>・・・自動ドアの事故は故障しているから起こるわけではありません。
>正常に動いていても起こるので注意が必要です

上記の注意事項は、至極常識的なものと思えますが、今回の事故もこの常識的な注意事項を守れば防げたもののような気がします。そういう点からするとあの回転扉はひょっとして、「正常に動いていた」だけかもしれません。
自動車や、家電製品の「リコール」は製品の欠陥が明らかになった場合の措置ですから、事故が起こったら全てリコールの対象になるわけではありません(だったら自動車は全て回収されてしまうだろうな)。今回の回転扉はさて如何に?

「安全とコスト」 
今回の事故で、もっと安全な扉に換えるべきだとか、安全性の高い扉に換えるべきだとかの盛んに言われました。事故率をより小さい扉を作り出すことは出来ますが、当然コストがかかります。事故低減とコストを考えてみます。

A.1/1万 → 1/10万 (1/10 にする効果)
B.1/10万 → 1/100万 (1/10 にする効果。Aと同じ)
A,Bとも事故率が1/10になる点では同じです。ですが、減少する数量で見直すと、

a.1/1万 - 1/10万 = 9/10万(10万件に9件の事故が回避出来る)
b.1/10万 - 1/100万 = 9/100万(100万件に9件の事故回避。aに比べ減少数は1/10)

率というもので見ると同じ効果ですが、数量で見ると違ってきます。しかしA,a→B,bのような対策に要するコストは使用者全てが均等に分担することになります。
また、一般に製品の完成度が上がればあがるほど改良は困難になります。そうなると、その改良に要する費用も完成度の高いものの改良程多額になります。
bはaに比べ、改良による事故数の減少は1/10ですが、この改良に要する費用は10倍かもしれません。すると、使用者が均等に負担するコストは、事故数の減少の観点からすると100倍にもなります。
これは、単純に一つの事象だけに目を向けた話ですが、それだけでも、あるレベル以上の安全性を求めたときに、それを使用者が負担できるコストの限界を超えることは目に見えています。
普通の乗用車が200万円で購入できるとして、「普通の車」の10倍安全な車を2億円で買おうという人は、かなり少数でしょう。それなら多少の危険は容認し200万円の車で、安全運転しようと思いませんか?

今は、単に金額としての「コスト」の話でしたが、ちょっと考えれば他のコストもあります。
たとえばエレベータでも事故は起きますが、これを撤去して全て階段にしたとするとどうでしょう?。階段だけで10階を超えるビルの階にいこうとしたら。車いすの方やお年寄りには・・・。
今回の回転扉にしても、冷暖房効果が上がることや、高層ビルにありがちなドラフト現象などの低減には効果があるため、採用されたという面があります。生活安心情報提供サービスの掲載記事にあった、「一般的な注意事項」を守れば回避できる程度の危険回避のために、その他多くの利便性全てを犠牲にするべきでしょうか。どちらのウェイトが高いかよく考えましょう。「少しでも危険なものはいけない」というのは簡単ですが、物事そんなに単純にはいかないのです。

「心情を優先した議論と実現性のない理想」 
今回の話を、
「無くなったお子さんが可哀想。メーカーはこんな事故を二度と起こさないようにすべきだ」
と心情的な思いを書くのは簡単ですし、こう書いていたら多分反論(?)はこないと思います。でも私は意地が悪いので、すぐ次の様な架空の話を考えて、あれっと思ってしまうのです。

A.「小学校入学を目前にした子供が閉まりかける回転扉に駆け込み、扉に挟まれて死亡。」
B.「コンパ帰りの酒に酔った大学生が閉まりかける回転扉に駆け込み、扉に挟まれて死亡。」

さて、どうでしょうか。死亡した理由は同じ。Aの子供は幼い故に常人より注意力が劣っているかもしれないが、大学生も酒に酔っているから多分注意力が劣っている。この点も同じ。でもこの記事が新聞に載ったとしたら、「Bの大学生が可哀想でならない。回転扉の安全性に問題があるのでは」と新聞に投書があるとは思えない。あるとしたら、「大学生にもなってなんて馬鹿なことを」ということにならないだろうか。心情優先の議論なんて所詮こんなものである。
また、「メーカーはこんな事故が二度と起こらない様な扉を作るべきだ」と言う理想論を振りかざしたところで、「二度と事故を起こさない扉」を作れると思っているのだろうか。私に思いつくただ一つの絶対安全な扉は、「開かない扉」。これなら、挟まれて死ぬことは無い。開かない扉が、「扉」と言えるのならだけれど。

えーと 
書いていると切りが無いのでこの辺で止める。
ちょっと考えてもこれくらいの問題はぞろぞろ。
もちろん私の思いつかないことや、考えの誤りなどはあろうけれど、自分では常識的な話を書いたつもりである。私の常識は「非常識」でしょうか?


回転扉  (2004.4.1[木])

六本木ヒルズの回転扉での事故のニュースが新聞やTVに踊っている。

 「管理が杜撰だ」
 「センサーの有効範囲に問題がある」
 「日本の安全基準は甘い」

有識者と呼ばれる人々のコメントに、様々な再現実験。回転扉がいかに危険なものであったのかを手を替え品を替えて伝えている。まるであの扉が殺人マシンででもあったかのようにである。
今回の死亡事故で明るみに出たあの回転扉での事故の件数は開業から数えて「34件も」あるという。

だが開業以来数百万人の人が訪れている場所での数である。あの扉にしてもおそらく毎日千人を超える人が通り抜けていたはずである。一日千人としても一年弱で35万人が利用している場所で、34件の事故なら、1万人につき1件の事故は果たして「恐ろしく高い事故率」なのだろうか。

あるニュースでは、
「この回転扉は、センサーが反応しても停止するまでに25〜30cmも動くんです」
と、驚きを持って伝えていた(という風に番組を作っていた)。2.7tもの重量のある動く扉。乗用車三台分もの重さの物体が動いているのに、制動がかかれば瞬時に止まると考えることの方が私には驚きだ。言い古された言葉の通り、「車は急に止まれない」のである。

あの回転扉が、優れた安全機構を備え、あらゆる事故に対処できるように作ることが出来ていれば今回のような事故は無かったのだろうが、我々が生きる世界にそんな完璧な安全を求めることは出来ない。
だからといって、みんながみんないつも傷だらけかと言えばそんなことはない。ちょっとした注意を払えば、ある程度の危険は回避出来るからだ。

今回の事故は、地上高120cm以上のものにしか反応しないセンサーが、117cmの身長の子供に反応しなかったためであるとか、センサーが反応しても30cmも動き続ける扉であったので、人を巻き込んでしまったのだという話ばかりであるが、ならば身長が120cmに満たない子供たちは皆あの扉に巻き込まれてしまったのかと言えばそうではない。
センサーが働かなくとも、扉が閉まりかけるぎりぎりの瞬間にすり抜けようなどとしないだけの注意深さがあれば、扉に巻き込まれずにすんでいたはずだからである。

「そうはいっても、相手は子供」というが、年齢は6歳。全く周囲の状況を把握できない幼児ではない。初めての回転扉が珍しくて危険も忘れて飛び込んだ結果の事故だとすれば、同情はするが、自業自得といわれても仕方がない。
扉自体の安全対策がもっとしっかりしていれば、事故は防げたか、死に至るまでの重大な事故にはならなかったかもしれないが、扉の製造者と管理者が今回の事故について、100%責任を負わなければならない訳ではないと思う。外部からその事件を眺めれば、事故に対する責任は 7:3の比率で、飛び込んだ子供と、その子供を監督していた親の責任の方が、回転扉の管理者より重いように思える。

TVのニュースを見ながら、いつの間に我々は、願わしくない事柄の責任をすべて他者に負わせて、平気でいられるようになってしまったのだろうと考えていた。
善い方へ向かおうと思っていたはずなのに、実は悪い方へと向かってしまっているのかもしれない。気づかぬ間に回転扉のこちら側と向こう側が入れ替わってしまっているときのように。


ページトップ by かわうそ@暦 (PV since 2008.7.8) Powered by HL-imgdiary Ver.3.00