かわうそ日記 ( 2004年09月 ) こよみのページ こよみのページ
秋の柿田川・その2  (2004.9.28[火])

水草 「次に生まれかわったら、何になりたい?」
会話のはずみで、そんな話題が出ることがある。
その時々によりなりたいものは変わるが、最近尋ねられて脳裏に浮かんだものは、
 「雑草」
であった。秋の日の中で風になびく草を見て、来世の憧れとしたのである。

公園のある湧水源付近と違い、人の来ることも希な柿田川の下流の川底には、ゆったりとした川の流れになびく水草が生えている。
濁りのない澄んだ柿田川は、光の反射の加減では、水の存在が判らないことさえある。
その水の見えない川底に揺らぐ水草は、風に揺らぐ憧れの雑草の姿のようでもあった。


今年の柿田川行きは、車での旅であった。例年は柿田川をみてそのまま帰っていたのであるが、今年は足があるから、近くにある三嶋大社に詣でることにした。
詣でるといっても、信心深いわけではなく、境内にある三嶋の金木犀を見て行こうと思ったのである。

三嶋大社には、樹齢1200年以上といわれるご神木の金木犀があると聞き知ってはいたが、実見するのは初めて。金木犀といえば、大人の二の腕ほどの太さの庭木しか思い浮かばないのだが、樹齢1200年の金木犀とは?

夕方に三嶋大社に着き、広い境内でお目当ての金木犀を探す。しばらくして見つけたその木は、遠目ではとても金木犀とは思えないもの。
近寄って薄い秋の日の中で花を見、その香り包まれてようやく、金木犀だと実感できた。老木のせいか、種類のせいなのか、花の色は普段見かける若木のそれより薄いようで、それがかえってゆかしいふぜいである。

二度の開花をするというこの金木犀、立ち寄った秋分の日は、丁度例年より早めに訪れた二度目の満開の日。幸運な思い出を一つ余分に受け取ったようだ。


秋の柿田川  (2004.9.24[金])

秋分の日の休みを利用して、柿田川を眺めに出かけてきた。
前日、仕事を終えてから東京を発ち、その日の遅くに三島に着いた。出来れば、上弦の月が映る夜の柿田川を眺めてみたいと思ったからであるが、到着した三島の空は雲に覆われていた。

明けて秋分の日。すじ雲を透かして空の青さが見える天気。南の低空には遠い入道雲が、見えている。
水と色の生まれるところ有名なミシマバイカモの花が咲く初夏には、沢山の観光客が押し寄せる湧水源も、季節はずれのこの日は閑散とした雰囲気。

いつもは後から来る人が気になる第二展望台だが、この日は人を気にせず、水の湧き出しにあわせて優雅に踊る砂を眺めて時を過ごすことが出来る。

そこから見下ろした湧水源は、空の青と水の青とその間に挟み込まれた木々の緑の色。水が湧き出す毎に生まれ変わる幾百万の色に彩られて見える。
柿田川公園沿いの木道の終点からは、畑や住宅地の間だの道を歩き、河口へと向かう。
しばらく川から離れ、

「あれは木槿で、これはランタナ、向こうに咲いている赤紫の花は何だろう?」

と、周囲の畑や家の庭に咲く花を眺めながら、ぶらぶらと歩く。日射しが強まって、頭が熱い。
柿田川は全長わずか1.2kmの川。ゆっくり歩いても30分とかからずに河口。河口近くに架かる橋の上からは、川鵜がせっせと漁をする様子が見えた。

柿田川が狩野川に合流する場所には、古い水門の跡があり、流れが急になる。
源流から静かに湧き出し、音を立てることもなく流れて来た透明な水が、ここで初めて瀬音を発し、波立ち、陽の光をきらめかせながら、他の水系に生まれた水に合流して行く。

薄に覆われた水門跡を抜ければ、その先は直ぐに狩野川である。
柿田川河口付近



昼と夜  (2004.9.22[水])

昼と夜とは別の世界。
日の有り無しだけで計れない何かがある。
夜には、見知った世界が、その見知らぬ顔をのぞかせる。
人間の世界と、埒外の世界。
日常のありふれたものが、何か得体の知れないものに変貌し、人間の世界とは別の世界を闊歩する。
帰宅途中に学校の前を通る。
駅へ向かう最短経路ではないので、出勤時には通らない。
帰宅時間は、概ね日付の境界線に近いあたり。
街灯の光から、背後の夜を守る障壁にように立ちはだかる校舎の壁に、桜の葉の影が踊る。
夜の学校風に揺り動かされる桜の幹が、枝が、葉が、そして葉の影が、何かを伝えようとしている。

記憶の中では、ただただ怖く恐ろしかった得体の知れない夜が、今は親しい話し相手。
人の気配の消えた夜の校舎と、校舎の壁にゆれて踊る葉の影と、今日一日の互いのことを話して、それから残りの道のりを帰るとしよう。


九月の朝顔  (2004.9.9[木])

朝の日差しに熱を感じることが無くなった。
鈴掛の葉が歩道に落とす影の輪郭もぼんやりぼやけている。
今年の夏は暑かったと、思い出として話される頃となった。

すっきりと区画かされた汐留の近未来的な建物群を通り過ぎると、ごみごみとしたとした背の低い建物が並ぶ一角に入る。
ごみごみしたというのは語弊が有るかもしれない。生活臭のある街と言うべきだろうか。
広告の張られた街灯の柱に朝顔が巻き付き、花を咲かせている。
夏の花、朝顔が、夏が思い出の中に去ってゆく頃に咲いている。
九月の朝顔鉢に巻かれた種がこぼれでもしたのか、アスファルトのわずかな隙間から生えだした朝顔だった。

人の手で世話をされた朝顔より、生きていくのは難しかったのだろうか。
鉢植えの仲間に大分遅れて花を咲かせている。
仲間より、難しい環境で生きて来た苦労の代わりに、好きなときに花を咲かせる自由を得たかのように、意気揚々と咲いている。

元々朝顔は短日植物だそうだ。とすれば、日が短くなったこの時期に花をつける方が自然なのかもしれない。
人のために、人の時間にあわせて花をつける朝顔、
人の手を離れて自分の時間に花を咲かせる朝顔、
それぞれの花にそれぞれの時機があるのだろう。

鉢植えの仲間の姿を消した街で、遅れてきた朝顔の花が咲いている。


風の吹く日に  (2004.9.1[水])

人のことを仏教で、風台ということがあるそうだ。
風が集まるところなのか、風が吹き出すところと言う意味なのか。

橋の上に、強い風が吹いていた。
北の台風へと、海から吹き込む風が河口を過ぎ、橋を抜け、更に上流へと向かう。
風が駆け抜ける河面は波立ち、岸を打ち、しぶきをあげる。

吹き溜まった思考や行き場の無い言葉の数々が、風に吹きさらわれて行く。
替わって彼方の海からの旅を続けた風の記憶が流れ込み、違う人間に生まれ変わる。
風を集め、風を吹き出しながら、日々生まれ変わる、人間を風台いう由縁だろうか。
二百十日の夕暮れ


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