かわうそ日記 ( 2006年01月 ) こよみのページ こよみのページ
人間の楽しみ  (2006.1.19[木])

焚き火「生まれ替わったら、放火魔になるかもしれない」

と思うことがある。それくらい火を焚くのが好きだ。
子供の頃、田圃の隅や干上がった大きな池の砂の上で火を焚いた。
燃料は周囲の山にいくらでもあったから、火を焚いて家から持ち出した鍋で湯を沸かしたり、粘土をこねて作った器を焼いて土器もどきを作ったりして遊んだのである。

当時だって、「子供の火遊び」がいいわけは無いが、それなりに注意をすれば火を焚いてもさほど危なくない場所がたくさんあった。
田舎だったので、ちょっとしたゴミや木切れなどはそれぞれの家で燃やすのが当たり前だったし、小学校の低学年の頃まで家の風呂は薪で焚いていたいたから、火とのつき合いは今よりずっと濃かった。そして何より長閑だった。
ま、たまに親に怒られることはあったけれど。

「人間とは、火を使う動物である」

という。してみると、火を焚き、炎を眺めるというのは「人間の楽しみ」かもしれない。
が、今の便利な世の中はこの人間の楽しみを奪ってしまっている。
煮炊きの火は、コンロのスイッチ一つで現れるガスの青白い炎がいいところ。IH調理器具では何の炎も目にしない。
落ち葉を集めて落ち葉焚をと思っても、都市部ではまず不可能である。嗚呼、炎が遠ざかる。

幸いなことに、昨年四月から「都市部」を離れて暮らすようになった。
さすがに家の周囲で落ち葉焚きをするのは気が引けるが、ちょっと離れると大手を振って火の焚ける場所は多い。
そんなわけで冬のある日、家族連れで近所の山へ行った。山の間を流れる川を見ると冬枯れして水が無い。ごろごろとした石ころの河床がむき出しである。
河床は石ころばかり。周囲に人影はない。川の両側の林の中には落ちた枯れ枝がいっぱい。三拍子そろっている。
これは焚き火をする以外に何がある。

小学校四年生の息子を従えてまずは燃料調達。
前日雨が降ったため林の中に落ちた枯れ枝も少々湿っているが仕方がない。
大きな羊歯の枯れ葉と、さほどひどく湿っていない杉の枯れ枝を焚き付けに集め、後は手頃な枯れ枝を一抱え。
羊歯の枯葉を一番下に、枝は適当な長さに折って細いものから順にその上に載せる。息子にさせると、いきなり太い枝を載せたり、焚き付けの上にではなく下に入れようとしたりする。火の焚き方がわかっていない。

息子は生まれたときから「スイッチ一つのコンロの火」以上の火を使ったことがない。火の焚き方がわからなくとも仕方がないか。
手順を教え、やってみせるが息子の火に枝をくべる仕草がぎこちない。どうも炎が怖いらしい。

 「人間は火を使う動物である」

便利になって、危ないものは何でも遠ざけるような世の中がいつの間にか「火を使えない人間」を生み出してしまうのだろうか。
これからは焚き火くらい一人で出来るように息子を鍛えてやらねば。
「息子のため」を口実に、今年は焚き火の回数が増えそうである。

追記.
今回の失敗は、火にあぶって食べられるものを用意しなかったこと。
次回は忘れないようにしよう。


こちら、ソバ二千五百杯  (2006.1.15[日])

江戸時代のお金と言えば一両小判。
一両は四千文であるそうな。
落語にたびたび登場する屋台のソバは二八蕎麦。
一杯十六文だから、二八蕎麦とか。
一両はすなわち蕎麦二百五十杯の価値か。

薄っすらとつもった雪の下の藪柑子の写真を見た。多分三年前の冬だったと思う。
濃い緑の葉と積もった雪の白、葉の下の赤い実。
写真を見てどきどきした。

あたりの山には藪柑子があるという。
藪柑子が赤い実をつけるのは冬。
あの雪の中の藪柑子をこの目で見たいと思った。

だがこの辺りは雪など滅多に降らない。
ましてや積もることなど全くない。
冬でも雪の中の藪柑子というわけにはいきそうもない。
まあ、仕方がない。

藪柑子ありそうだと教えられ杉の森に入ると、藪柑子の赤い実はすんなりと見つかった。
昨日からの雨があがったばかりのどんよりとした空模様。
杉の森の中は夕方かと思うほど暗い。その暗さで余計に藪柑子の実の赤が際立つ。
暗い森のそこかしこで、背の低い藪柑子が赤い実を付けていた。

藪柑子の別名は、十両。
親戚の萬両ほどの実が無いからだろう。
萬両ほどではないけれど、それでもその名は屋台のソバ二千五百杯の価値。
この目で見て、写真も撮れて、それなりに満腹である。

追記.
この辺では「一両」と呼ばれるとか。ソバ二百五十杯ではちと寂しい。


大吟醸 知命  (2006.1.9[月])


成人の日に日本酒を買いに出かけた。

「お酒は二十歳になってから」

を守って一日千秋の思いで成人の日を待ちわびていた、というわけではない。
ただカレンダーが赤く塗られて、仕事が休みだったからというだけの理由である。

昨年知人のTさんから、「知命」という名前の吟醸酒が発売されていることを教えてもらった。新潟の菊水酒造の50周年記念の大吟醸ということだ。
50周年ということで「知命」と名付けられたのだろうがこの名前、我が家の長男の名前である。息子と同じ名前の酒ということで記念に購入しようと思ったわけだ。


この酒の話しを聞いたときから既に4ヶ月。
ネットで手にはいるだろうと高を括って正月に通販サイトを巡ってみたらどこも品切れ。まずい。
実店舗で残っているところが有るかもしれないということで、成人の日にようやく重い腰を上げて、家族で探しに出かけたのである。

結果からいえば、写真のとおり無事購入。可能性の有りそうな店を何軒か回り、空振りに終わった後で、もしかしたらと立ち寄った最後の店で巡り会えた。

写真撮影後は試飲ということになるが、家内は完全無欠の下戸。
名前つながりの息子はといえば「お酒は二十歳」の1/2の年齢だから、犯罪者とならないためにこれも駄目。その下の次男は言わずもがな。
結局試飲可能な人間は私一人。ただしこれまた下戸同然&味覚音痴。
よって、飲んでは見たけれど味に関する意味のあるコメントは一切無しである。悪しからず。

ちょっとだけ試しに嘗めた後は一升瓶の底に二合分を残して、八合は両隣の家へお裾分け。
中身の減った一升瓶のラベルを前に、

 子曰・・・

と始まる漢文の中になんで自分の名前があるのかと首を捻るのは我が家の知命。
「知命」の残り二合は、我が家の知命を肴にゆっくり飲めば良さそうである。



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