かわうそ日記 ( 2009年09月 ) こよみのページ こよみのページ
上弦の半月です  (2009.9.26[土])

上弦の月の欠けぎわ クレーターがすごくはっきり見えます!

うれしそうにそう言われて、面食らってしまいました。
望遠鏡と名のつくもので月のクレーターが見えないものはまず有り得えませんから、望遠鏡を月に向ければクレーターが見えるのはあたりまえ。
その事実に慣れてしまっていたので、クレーターが見えて驚く人に驚いてしまったのでした。

家にあったおもちゃのような望遠鏡を初めて月に向けたのは、今から大体40年近く前のことでした。多分小学校の 2年生くらいの頃だったと思います。
家の窓枠にそのおもちゃのような望遠鏡を望遠鏡を取り付けて月を眺めたのが最初でした。

多分口径 3cmくらいの小さな望遠鏡でしたが、その望遠鏡でもいくつものクレーターが見えました。
その時、クレーターという言葉を知っていたかどうか、その記憶はありませんが、もし知っていたとしたら私も、

 わぁ、クレーターが見える!

と言っていたでしょう。
そうですね、いくら写真などでは見知った姿でも、自分の目でその姿を初めて見たとしたら、誰しも同じように思うのでしょう。

昨日今日と人に望遠鏡をのぞいてもらう機会がありました。
そのときに大昔の自分と同じ驚きを感じる人を見て、その後に自分でも見慣れた月をあらためて眺めてみると、なんだか初めて月を望遠鏡で見たときの驚きが蘇ってきた気がしました。

今は、何処の家にも小さな望遠鏡くらいあるだろうと勝手に思っていましたが、どうもそうではないようです。
こんなに喜んでもらえるなら、時々ご近所さんに声を掛けて、その季節に見える星を眺めて見るのもいいかもしれないなと思いました。
まずはそう、寒くならないうちに一度・・・。


※この画像は、観望に使った望遠鏡についている口径5cmのガイド鏡に、説明のために取り付けたホームビデオカメラで撮影した映像からモザイク合成したものです。5cmの小口径でも結構映るものですね。


万華鏡  (2009.9.15[火])

さっきまで降っていた雨があがって、雲の隙間から日の光が射し込んできました。

雨らしい雨を見たのは何日ぶりでしょうか。久しぶりの雨でした。
家の裏山に降った久しぶりの雨の粒たちは、集まって小さな流れを作っています。

流れの底には、雨の無かった日々の間に育った草の葉が、ゆらゆらと透けて見えています。今日の雨がなければ、大きな草に育ったかも知れない幼い草の葉が、水の底から空を見上げています。

海から高さにして5、60m、
距離にしてもわずか 2km離れただけの山に降った雨は、大河に育つ間もなく、
細い流れのまま海へ向かって行きます。
草の葉はその細い流れの底で、光と共にゆらめいていました。

万華鏡
山から流れ出た水の流れは、ゆらゆらと動きながら海へと向かって流れて行きます。
揺れ動く水の面に映る全ては様々にその姿を変えて、とらえどころがありません。
一瞬一瞬、形を変えて水に映るものの姿は、

あったかもしれない過去と来るかも知れない未来の姿の断片、
あるいは、あったはずの過去と来るはずのない未来の姿の断片なのかも知れません。

水の底で揺れる草の葉が大きな草へと育つか、このまま水底で枯れてしまうのか、その未来もまたそうした不確かな断片の一つ。
そして、それを眺める私の姿も不確かな断片の一つとして水面に映っているのでしょう。

時の流れの中の不確かな可能性の断片を映しながら、山に降った雨は確実な未来の海へと流れて行きました。


秋さまざま  (2009.9.13[日])

秋、それは様々な貌を持った季節です。

 スポーツの秋、
 実りの秋、
 読書の秋、
 食欲の秋

昨日のことです。
山をくり抜いた国道のトンネルの出口に、栗のいがが幾つも落ちていました。
国道を走っていると、トンネルの上の山に生えた栗の木から落ちたとおぼしき栗のいがが路肩に集められたように幾つも転がっていました。

車の窓から眺めていては、気付かないか気付いても気に掛けることの無い山栗のいがですが、「スポーツの秋」と自分の足で走ってみると気になるものです。踏んだりしたら危ないですから。

足下に落ちたいがの多くは茶色く枯れた色をした小さなものでしたが、幾つかは落ちたばかりと見える緑のいがでした。緑のいがは、茶色に枯れたいがに比べて概して二回りほど大きい立派ないが。
そのまま走り過ぎて約10m。この10mの間に整理された頭からは、

 割れていないいがもあったぞ。
 割れていないということは、中身があるぞ!

という報告が届きました。
もう15kmを走っている足はいい加減早く走り終えたいと思っているようですが、割れていない大きな栗のいがの誘惑には逆らえません。
折角進んだ10mを逆走して、割れていない緑のいが三つを割って三つの栗を手に入れました。

割ったいが三つにはどれも三つづつの栗が入っていましたが端っこの 1つ以外の二つは栄養不足の皮だけの栗でした。ただその分残り 1つは丸くて大きな栗でした。
山は立派な「実りの秋」を迎えていたわけです。

栗三つ山の実り、栗の大きさはご覧の通り。
大きさ比較のために、読みかけの新書の上に載せてみました。

家に帰って、ランニング中に手に入れたこの三つの栗を家内に見せると家内の目がキラリ。そして今日は、家族そろって件の場所に出かけることになりました。
その場所に着いてトンネルの上の山を見ると、この三つの栗の親とおぼしき大きな栗の木が生えていて、しかもその枝にはまだ沢山の栗のいががついていました。やった!
そして今、我が家にはこの三つの栗と同じくらいの大きさの栗が他に三十個存在しています。

現在の予定では明日の夕飯は栗御飯。実りの秋は「食欲の秋」に続いておりました。

追記.
栗の木にはまだ沢山のいががついていました。
この秋の間に後一、二回は、栗採りをすることになりそうです。


日照り雲  (2009.9.2[水])

遅い梅雨が明けてから、お日様がそれまでのツケをまとめて返してでもいるのか、ずっと晴天が続いています。

職場の庭の金魚の池の水も大分減ってきて、金魚たちも干物になってしまいそう。このまま天からの水が期待出来ないとなれば、近いうちに金魚の池に水を足してやらないといけないかもしれません。

日の暮れを仕事の区切りとして、いつも持ち歩く膨らんだ鞄を提げて外に出ると足下は夜の闇のように黒い森の影に覆われてていました。
暗い足下に戸惑いながら、目を凝らして慎重に十歩も歩くと影の森の頂を越えたのか、夕日の光がわずかに残る場所にたどり着きました。

光の残る場所に着いて、今またぎ越したばかりの影を作った森を振り返ると、その向こうには雨を降らせることには一向に役立たない乾いた雲が、茜色に染まっていました。

あの雲の様子では、律儀すぎるお日様は明日も晴れを約束しているようです。
金魚の池に水を足してやること、そろそろ真剣に考える必要がありそうです。
日照り雲


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