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【救難】(きゅうなん)
 災難から人を救うこと。
  《広辞苑・第五版》

 私の住む町から車で小一時間走ったところに、串本町大島があります。
 「大島」という名前の通り、つい最近までここは船でしか行くことの出来な
 い島でした(1999年に橋が完成)。
 この島の北東端の崖の上に樫野崎灯台があり、この灯台から400m程離れた場
 所に軍艦エルトゥールル号の慰霊碑が建っています。118 年前の明治23年(18
 90年)9/16に樫野崎沖で遭難沈没したトルコ軍艦の慰霊碑です。

 この遭難では 600人に近いトルコの将兵が亡くなりましたが、救いはこの大
 島の人たちの救護活動によって69名が生き残り、本国に生還したことです。
 大島は現在でも崖の多い島に、民家が点在するといった寒村と表現しても間
 違いでは無いところ。

 明治の中頃、この寒村の人たちが言葉も通じずどこの国の人かも解らない遭
 難者の救助を誰の命令を受けたわけでもないのに行っています(政府にこの
 遭難の第一報が届くのは 3日後のことです)。

 当時の村の人たちはただ、「災難から人を救うこと」だけのために働いたわ
 けです。このただ災難から人を救う行為は、生き残ったトルコ将兵によって
 本国に伝えられ、 118年を経た今もトルコでは学校の授業でこのことが子供
 達に教えられているとのことです。

 1985年のイラン・イラク戦争激化でイラン在住の日本人にも危機が迫った際、
 取り残された 200名以上の日本人を救出したのは、危険を冒して飛来したト
 ルコ航空機でした(日本では民間機は安全が保証されないことから、自衛隊
 機は海外派遣の問題から救出に向わなかった)。

 当時日本では、トルコが日本人を助けるために特別機を飛ばした理由がわか
 らず「日本からのトルコへの経済援助が強化されたためか」などという的は
 ずれな論を朝日新聞が掲載したほどです。この論を読み、トルコが行った行
 為の真意が誤って伝わることを懼れた駐日トルコ大使は後日、朝日新聞に投
 書を送りました。その投書の最後は次のように結ばれています。

  (前略)
  トルコは難儀している人々に手を差しのべたのです。
  仮に貴国民が似たような事態に直面したならば、同じような行動をとられ
  たことは疑いの無いところです。
  この点を肝に銘じておいていただきたいのです。

 現在でも樫野崎の慰霊碑は大島の人々によって清掃されています。また駐日
 トルコ大使、駐日トルコ大使館付武官はその在任中に必ず串本町を表敬訪問
 し慰霊碑に詣でるそうです。今年(2008年)は来日したトルコ大統領がやは
 り串本町を訪れ、慰霊碑の建つ樫野崎に向かいました。
 串本大島とトルコとの交流は今も続いています。

  118年前、ただ「災難から人を救うこと」のために働いた人たちがいたこと、
 その人たちのこと忘れない救われた側の人々がいること、その二つのことを今
 日は【救難】という言葉から思い出しました。

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