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【一簣の功】(いっきの こう)
 最後のちょっとしたほねおり。
  《広辞苑・第五版》

 一簣とは、一つのもっこのこと。さらに広辞苑のお世話になれば、

 【一簣】(いっき)
   一つのもっこ。また、それに盛った土。転じて、わずかなもののたとえ。

 と言う具合です。
 普通、この「一簣」を用いた成語として使われるものとしては「九仞の功を
 一簣に虧く」があります。長いことかけて来た事業も、最後のちょっとした
 ほねおりを惜しむだけで、未完成に終わってしまう。ほんのちょっとした気
 の緩みで失敗してしまうことの例えとして使われる言葉で、元は書経にある
 言葉です。

 本日取り上げた「一簣の功」の広辞苑の解説が「最後のちょっとしたほねお
 り」となっているのも、この「九仞の功・・・」で使われる「一簣」を意識
 したもののようです。

 論語の中にも、この「九仞の功・・・」を意識した孔子の言葉が残っていま
 す。論語・子罕篇にあるその言葉は

   たとえば山を為(つく)るが如し、
   未だ成らざること一簣なるも、止むは我止むなり。
   たとえば地を平らにするが如し、
   一簣を覆すといえども、進むは吾往くなり。

 「山を為る」部分は、九仞の功を一簣に虧くと同じ戒めの言葉です。
 対して、「地を平らにするが如し」以下の部分は、ちょっとしたほねおりで
 あっても、努力して前に進むのは自分自身だという、励ましの言葉になって
 います。

 完成間近に油断して、それまでの苦労を水の泡としてしまうことが無いよう
 にという警句はもっともなことですが、考えてみればそうした「九仞の功」
 も最初の一簣の功があってのこと。

 とかく私たちは九仞の功に目を奪われて最初の「一簣の功」を軽んじがちで
 す。ですが全ては最初の一簣を動かすところから始まるのだというあたりま
 えのことを孔子のこの言葉は思い出させてくれます。

 結局九仞の功を支えるものとしては、最初の一簣も最後の一簣も等しいもの
 です。九仞の功を一簣に虧くことがないようにと気を引き締めることは、そ
 の場に立ったときに考えるとして、私のような小人は、最初の一簣を覆すこ
 ともせず、終わりを迎えてしまうことをこそ、恐れるべきなのでしょう。

   一簣を覆すといえども、進むは吾往くなり

 「一簣の功」を軽んじないように。

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