日刊☆こよみのページ スクラップブック
(PV , since 2008/7/8)
■桜田門外、雪の日の雛祭り
今日の記念日にあるとおり安政 7年 3月 3日は、桜田門外の変が起こった日
です。この日付をグレゴリオ暦(新暦)に直すと1860/03/24となります。
つまり 149年前の今日がその日でした。
◇時ならぬ大雪の日
今年(2009年)はいつもの年より桜の花が早いようで、東京からもそろそろ
開花のしらせが届きそうです。
桜の花が咲こうと言う今年とはうってかわって 149年前のこの日はと言えば
大雪の日だったようです。
近頃の東京の冬で雪が観測される最後の日は平均 3月11日(1971〜2000年の
平均)だと言いますから、それよりおよそ半月遅れの時期に、大雪と言われ
るほどの雪が降ったのですから、江戸の人々も「前代未聞」と驚いたといわ
れます。
桜田門外の変で、井伊大老を警護していた彦根藩士達はこの雪のために槍や
刀の柄には袋をかけ、身には雨合羽を羽織るといった雪備えをしていたため、
襲撃に際して刀を抜くこともままならず、迅速な対応がとれなかったといわ
れます。
◇襲撃の日は上巳の節供(雛祭り)
桜田門外の変が起こったのは当時の暦では三月三日、一般には雛祭りとして
現在でもなじみのある節供、上巳の節供の日でした。
上巳の節供は、
人日・上巳・端午・七夕・重陽
という 5つの節供の一つです。この五節供は江戸時代は式日(公的な祝日)
とされていて、江戸在府中の諸大名は江戸城に登城して祝いを述べる日とさ
れていました。
井伊大老を襲撃した側からすれば、この日は井伊大老が確実に登城すること
が判るばかりか、沢山の大名行列が江戸城に向かうため、地方出身の武士な
どは、この行列の見物のために沿道に立ち並ぶということがごく普通であっ
たため、怪しまれずに行列に近づくことが出来たのです。
目出度い上巳の節供ゆえに狙われることになってしまったとは、暗殺された
井伊大老にとっては、皮肉な節供となってしまいました。
◇最も早い三月三日?
旧暦の三月は二十四節気の穀雨(三月中気)をその月の内に含む暦月です。
穀雨の時期は現在の暦の日付では4/20頃になります。桜田門外の変があった
1860年の穀雨の日も現在の暦の日付で考えると4/20となります。
旧暦の暦月の日数は、大の月30日、小の月29日です。三月には穀雨の日を必
ず含むことを考えると旧暦の三月の始まりの日を現在の暦(新暦)で表すと
3/22(大の月の場合)か3/23(小の月の場合)
となります。桜田門外の変が起こったのは旧暦の 3月 3日ですから、この日
が最も早い場合を新暦の暦日で考えると
3/24(大の月の場合)か3/25(小の月の場合)
となります。つまり桜田門外の変が起こった年の 3月 3日というの日は、旧
暦の日付としては最も早い 3月 3日だったということになります。
旧暦の 3月 3日は平均すると新暦の 4月 8日頃となります。
もしこの事件のあった安政 7年の 3月 3日がこの平均的な時期であれば、さ
すがに、時ならぬ大雪と言うこともなかったかも。
そして、その時ならぬ大雪が無ければ、警護の彦根藩士達も主君を守りきれ
たかも。
暦や気象のちょっとした違いで、ひょっとすると歴史は変わっていたかも知
れません。もちろん歴史に「もしも」はありませんけれど。
(『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
magazine.sp@koyomi.vis.ne.jp までお願いします。)
日刊☆こよみのページ スクラップブック