こよみのぺーじ 日刊☆こよみのページ スクラップブック(PV , since 2008/7/8)
■「木の兄」を「甲」と書くのはなぜ? 十干の謎
 2010/10/04の皆様からのお便り紹介で採り上げました Oさんの疑問、

 (きのえ、きのと、ひのえ、ひのと・・・に)
 なぜ、甲、乙、丙、丁・・・・・という字をあてたのでしょうか?
 素直に、木、火、土、金、水の兄弟ではだめなんでしょうか?

 について採り上げてみます。

◇まずは十干から
 年月日にはそれぞれ「甲子、乙丑・・・」のように六十干支が割り振られて
 います。ちなみにこれを書いている2010/10/06の年月日をこの六十干支で表
 すと

  庚寅の年 丁亥の月 己丑の日

 と表すことができます(年・月は新暦の暦年・暦月にあてた場合です)。
 「庚寅の年」でいえば「庚(コウ・かのえ)」が十干です。六十干支の場合、
 十干が最初に来ますから縦書きでは十干が上、十二支が下になるので

  天干地支(てんかん ちし)

 と云って、十干を天干、十二支を地支と区別する場合もあります。
 さて、本日はその天干の話です(地支の話しはまたいつか)。

 十干は中国は殷の時代(紀元前17〜11世紀)に生まれたと考えられています。
 十は人間の指の数ということで、ものを数えるときに自然に使われるように
 なったと考えられます。

 殷王朝(殷の人達は自分たちの国を「商」と呼んでいたので商王朝と呼ぶべ
 きでしょうが、中学校の歴史でなじんだ書き方で殷としました)には王を出
 すことの出来る氏族が十あり、王の重要な務めはこの十氏族の祖先の祀りを
 絶やさないことで、どの日にどの氏族の祖先を祀るか決まっていて、これが
 日に十干を割り当てるようになった元だと考えられています。

◇つぎは五行説
 五行説は今でこそ「占い」のためのものと考えられていますが、もとはと言
 えば中国古代の科学的な仮説の一で、宇宙の森羅万象はすべて五つ「木・火
 ・土・金・水」の性質の組合せで出来ているという、一種の元素説だったの
 です。五行説が登場したのは紀元前五世紀頃と云われています。

 この五行説は、物質の成り立ちだけに限らず時の流れを表す年月日や季節に
 まで拡げて解釈されるようになります。当然十干もこの五行説の洗礼を受け
 ることになります。

 五行説にとっては十干はとてもありがたい。ちょうど「五」で割り切れます
 から。五行説と同時代に生まれた陰陽説(陰陽説と五行説は結びついて、そ
 のうち陰陽五行説とまとめて呼ばれるようになりました)と組み合わせると
 ちょうど収まりがよかった。

 それで、十干の始めから順に五行「木・火・土・金・水」と陰陽「陽(兄)
 ・陰(弟)」を組合せ

  甲(木の兄)・乙(木の弟)・丙(火の兄)・丁(火の弟)
  戊(土の兄)・己(土の弟)・庚(金の兄)・辛(金の弟)
  壬(水の兄)・癸(水の弟)

 と単純に割り振ったというわけです。

◇ようやく答え
 ここでようやく Oさんの質問のこたえですが、説明の中でわかったと思うの
 ですが、五行説が生まれて後に、五行に十干の文字を当てたのではなくて、
 先に十干があって、それを五行説的に説明したのが

  甲(木の兄・きのえ)・・・

 なのです。
 「甲」は「木の兄」の性質を持った十干であるということで「甲=木の兄」
 ではないのです。もし「甲=木の兄」の関係が普遍的に成り立つのであれば、
 例えば、十二支の「寅」は陰陽五行説での分類で云えば「木の兄」に分類さ
 れますから「十二支の寅は甲」と書けるわけですが、こういう使い方はしま
 せん。

 ただ他のものはそうではないのに十干に限っては、本来は陰陽五行説の言葉
 であった「木の兄(きのえ)」といった読み方をするようになったのは、陰
 陽五行の十種類と十干の十種類で、ちょうど同じ数で分かりやすく、また常
 に関係が崩れないわけですから

  「甲の日、つまり木の兄の日」 → 「甲の日」と省略

 と、省略していたものがそのまま通用するようになってしまったものと考え
 ます。
 いかがでしょう。謎は解けましたか?

  (『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
   magazine.std@koyomi.vis.ne.jp までお願いします。)
こよみのぺーじ 日刊☆こよみのページ スクラップブック