日刊☆こよみのページ スクラップブック
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■七日正月と六日年越し
先ほど、七草粥の朝食を済ませたばかりのカワウソです。
いろいろと行事の続くお正月ですが、この七種粥を食べると
ああ、正月も終わりか
という気分になります。
正月七日の朝は、何か一つ山を越えた感じのする朝です。
◇七日正月と六日年越し
七日は七日正月(なぬかしょうがつ)と呼ばれることがあります。
七日が正月なら六日は大晦日?
そうした考えがあったことを示すように「六日年取り」「六日年越し」とい
う言葉があります。
七日の朝には、七草粥を食べて一年の無病息災を願いました。
この七草粥はその前日、六日の夜から七草囃子(ななくさばやし)を歌いな
がら準備するものだとされています(現実には、なかなかそこまで出来ない
現代ですが)。こうして七日の朝に七草粥を食べるという行事を最後として
ひとまず正月行事は終了します。
七日の朝を過ぎると元日から続いた大正月の行事は一段落して、家は年神様
の座所としての神聖な場所から日常の生活空間へと戻っていきます。
※ちょっと補足
七日の朝には正月の間、家に留まった歳神の依り代となっていた松を取りか
たづけました。七日は松が片付けられることから「松がとれる」といい、元
日から松がとれるまでの間を「松の内」といいました。
◇繰り返される年越しの意味
六日夜から七日朝まで、則ち六日年越しから七日正月までの行事は、大晦日
から元日にかけての行事を二重写ししたもののように見えてきます。
なぜ、こんな二重の行事があるのでしょうか。
これについては確たる根拠は無いのですが、神様と人間、それぞれの年取り
を分けたものなのではないかとわたしは考えていますがどうでしょう?
大晦日から元日にかけて、新しい力を運んで来る年神を迎える、神のための
年越しであり、この日から松の内の間、年神は家々に留まり、新しい新しい
生命力を人々にもたらします(これがいわゆる、「お年玉」の本義。お年玉
の玉は、「魂」「霊」でどちらも「たま」と読む)。
ここで見られる年取りは、年神という神の年越しであり、六日年取り、七日
正月は神の年越し行事であった神聖な松の内の期間を終えて、日常の時間、
つまり人間の時間へもどる、人間にとっての年取りとして用意されたもので
はないでしょうか。
既に書いたとおり確たる根拠は無い話ですが、この考えどおりであれば今朝
からはもう人間の時間。
いつまでも正月気分に浮かれていないで、人間のお勤めを果たして行かなけ
ればなりませんね。
(『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
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