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日本の暦法の変遷
    日本の旧い暦というと、十把一絡げで「旧暦」で片づけられてしまうのですが、旧暦といってもずっとおなじ暦だったわけではありません。幾度も改暦があったのです。
 今回は、私自身の整理メモとして、日本で使われた暦法につ書いてみました。このため、このページは今後随時追加してゆくことになると思います。ご了承ください。

日本で使用された暦法
暦法 開始年 使用年数 編纂者 備考
元嘉暦 持統六年AD 692年 5年 宋(六朝)何承天 恒気・平朔(AD445〜509)
儀鳳暦 文武元年AD 697年 67年 李淳風 恒気・定朔(AD665〜728)
大衍暦 天平宝字八年AD 764年 94年 僧一行 恒気・定朔(AD729〜761)
五紀暦 天安二年AD 858年 4年 郭献之 恒気・定朔(AD762〜783)
宣明暦 貞観四年AD 862年 823年 除昂 恒気・定朔(AD822〜892)
貞享暦 貞享二年AD 1685年 70年 日本保井春海 恒気・定朔
宝暦暦 宝暦五年AD 1755年 43年 日本安倍泰邦 恒気・定朔
寛政暦 寛政十年AD 1798年 46年 日本高橋至時 他 恒気・定朔
天保暦 弘化元年AD 1844年 29年 日本渋川景佑 他 定気・定朔
(現行暦) 明治六年AD 1873年 イタリアリリウス 他 太陽暦(グレゴリオ暦)
備考内の () は本国での使用期間を示す

  1. 「暦」以前・・・魏志倭人伝の時代(3世紀頃)
     魏志倭人伝によれば、当時の日本には「暦」といえるようなものは無く、「倭人」はただ四季の巡りを感じて、春になれば種をまき秋になれば収穫すると言った素朴な生活を送っていたようです。
     月の巡りを数えておよその季節を知ると言ったごく原始的な自然暦の時代だったと考えて間違いなさそうです。もちろん「神武天皇が紀元前六百六十年正月朔日に即位した」なんてことが記録できるような暦が、あったはずはないです。

  2. 「暦」前夜?・・・6世紀中頃
     日本の記録に初めて「暦」という言葉が現れたのは、日本書紀十九巻欽明天皇十四年(AD 553)だそうです。内容は、百済から医・易・暦を担当する博士(技術者)を期限付きで雇いたいというもの。
     「技術者のレンタル契約」 と言ったところでしょうか。
     この時代は、暦は百済などから輸入して使っていたと思われますが、技術者のレンタル要請をしているところを見ると、暦の輸入に支障が有った場合でも計算できるようにと言うことだったのでしょうか。当時の航海技術では、大陸との行き来は困難。暦の輸入が遅れてしまうと言うこともきっとあったんでしょうね。
     推古天皇十年(AD 602)には百済より僧観勒が来朝し、朝廷では観勒に学生数人をつけて暦法や天文遁甲などを学ばせたという記述が日本書紀にあり、日本人の中から暦計算の出来る人材を育成しようとしていたことが伺える。

     日本書紀に記載された月日はこの五世紀中頃より元嘉暦の月日と一致するとの研究があり、暦本の輸入にせよ、御雇技術者によって計算されたものであったにせよ、元嘉暦が使用され証拠であろう。
     なお、わが国最初の暦日使用についての記載は日本書紀推古天皇十二年(AD 604年)

  3. 元嘉暦(げんかれき)
     元は中国六朝時代に作成された旧い暦。日本と国交のあった百済の国暦となっていたため日本に導入された。
     持統四年(AD 690)に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが暦法の公的採用の勅令と考えられる。もっとも実施には時間がかかり勅令後の二年後の持統六年(AD 692)。
     「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるが、平朔の元嘉暦と定朔の儀鳳暦との併用は困難だろうから、AD692〜696の5年間が元嘉暦、その後が儀鳳暦使用と考えられるようになった(根本元圭「皇和通暦」)。

  4. 儀鳳暦(ぎほうれき)
     唐で「麟徳暦」と呼ばれた暦。文武元年(AD 697)から使用されたと考えられている。恒気・定朔の暦で、当時とすれば「最先端の暦」であった。
     日本書紀の旧い部分(五世紀中頃以前)は儀鳳暦を「平朔」で用いて計算した日付によるって記述されていると言われている。数百年以上も遡って計算する作業が日本書紀編纂時期に発生すると、「定朔」での計算はその計算量が膨大となることから「ズルしちゃった」というわけか。
     コンピューターのある現代に生まれて良かったとしみじみ思う瞬間である。

  5. 大衍暦(だいえんれき)
     天平七年(AD 735)記帳した遣唐使の一人、吉備真備が

     「大衍暦経一巻、大衍暦立成十二巻、測影鉄尺一枚」

    を持ち帰ったとされている。暦の理論書と計算用の数表一揃えと、観測用機材を持ち帰ったと言ったところである。
     大衍暦の暦法が輸入されたのは前述のごと天平七年(AD 735)であるが、施行された年は天平宝字八年(AD 764)と29年も後。
     ちなみに、吉備真備は暦道の名家(暦博士を世襲した)賀茂氏の先祖である。

  6. 五紀暦(ごきれき)
     大衍暦が94年間使われた後、五紀暦への改暦が暦博士真野麻呂から奏上され、許可された。ところがこれがまた、「何で?」と言うほど遅い。日本で五紀暦が用いられたのは天安二年(AD 858)であるが本場「唐の国」ではAD 783年で廃止されている。いくら大陸との交通が大変とはいえなにも、廃止後75年も経ってから採用しなくとも。
     改暦する気が無いのかな?

  7. 宣明暦(せんみょうれき)
     ついに登場、宣明暦。何がついに登場かと言うと、その通用期間。AD 862〜1684年の間のなんと823年間。他の暦の通用期間を全部足しあわせても全然足りないほどの長期間使われた暦です。日本の中世の間、ずーっと使われていた暦と言っても過言ではないくらい長い。
     宣明暦がなぜこんなに長い間、改暦されずに使用され続けたのかと言えば、理由は二つか?
    1. 遣唐使の廃止
       改暦後、遣唐使が廃止され大陸からの文化流入が事実上途絶えた。このため、中国からの新しい暦法が輸入されることもなくなった。
    2. 日本人は「暦」に関心がない?
       日本人は暦に興味がないなんて言うと、まさかと言われそうですが、日本人が興味があるのは暦に後から付け加えられる吉凶判断の「暦注」で、暦の正確性などには興味がなさそうです。大衍暦・五紀暦採用の遅さなど見ても、そう思えます。
     中国との事情の違いもまたひとつ。中国では王朝が変わる毎に「暦を改める」のです。これは、天から国を治める権限を与えられる「天子」の家系が変わるならば、天の運行を示すべき暦も改めるのが当然と言うことで、前の王朝の暦に精度的な問題が無くとも、政治上の理由で変えておりました。
     こう考えると、日本は実質的な統治者は変わっても、建前としては継続した「天皇家」の統治下にあるので、政治的な理由での改暦は無いというのも、改暦が少ない理由でしょう。

  8. 貞享暦(じょうきょうれき)
     ついに登場貞享暦。こちらは宣明暦と違った意味での「ついに登場」です。
     貞享暦以前の暦は全て、中国の暦法を輸入したものでしたが、貞享暦は初めて日本で作られた暦です。貞享暦とう勅名を得るまでは「大和暦」と呼ばれていました。
     これを作った人物は保井春海、というより渋川春海と名乗ってからの名前の方が有名です。

     それまで使われていた宣明暦は、良い暦だと評価は高いのですがさすがに800年も使われて来たことで、暦の計算の起点となる冬至の瞬間の推算値が現実の冬至と二日近く異なる(『天行二日を違う』と表現されました)ようになり、改暦が必要な時期となってきていたのです。
     貞享暦は、暦法としては中国の授時暦に学んで、更に西洋の天文学の知識なども取り入れて作られた暦です。そしてこの暦を作った渋川春海は幕府の属僚(元々は幕府碁所・・・囲碁を教授する・・・所属でした。なんとなんと)でしたから、ここに暦編纂の権限が京都の公家から幕府に移動したという点でも、一大転機だったと言うことが出来そうです(渋川は、幕府天文方に任命された)。

  9. 宝暦暦(ほうりゃくれき)
     貞享暦で日本独自の国暦を作った日本であったが、次の改暦は暦学上・天文学上の必要性や、観測技術の進展、計算法の改良と言った改暦の理由となりそうなまっとうな理由がさっぱり見あたらない改暦。
     広瀬秀夫先生の「暦」には、これは学問好きの将軍(八代)吉宗の「改暦」の命令があって仕方なく作ったものではとの意見があるが、なるほどそうかもなと思われるもの。そういった事情で作られた暦であるためか、ついうっかりと忘れてしまいそうな影の薄い暦である。

     宝暦暦は、スタートしてまもなくの宝暦十三年(AD 1754)の日食予報に失敗。予報にない「日食」が起こってしまったのだから、これはつらい。バレバレである。
     その責任を追及された結果、宝暦暦の一部改訂が行われた
     どちらかというと、失敗した日食にあわせて常数をいじって「合ったもの」に後追い的に直した感じ。
     ただ、これ以降篇暦には「日々の観測の集積データ」が必要だと言うことがようやく認められ、江戸牛込に常設の幕府天文台が作られることとなった。怪我の功名かな?

  10. 寛政暦(かんせいれき)
     十八世紀も末にになると、当時鎖国政策をとっていた日本にも進歩した西洋天文学の知識・理論が流入してくるようになった。特に当時の大阪には麻田剛立を始め、高橋至時・間重富らの優秀なアマチュア暦学者が集まり、中国経由で伝わってくる西洋の天文学の理解に努めていた。
     あまりぱっとしなかった宝暦暦をなんとかしたい幕府は、この優秀な大阪のグループに目をつけ、招聘を試みた。麻田は固持し、自分に代わって高橋・間両者を推薦、両名が天文方に取り立てられた。
     寛政暦の最大の特徴は、月と太陽に関して楕円軌道論による位置計算を行っていることである。時間的に間に合わなかったために、月と太陽以外の5惑星は従来のまま(周転円)であった。

  11. 天保暦(てんぽうれき)
     寛政の改暦後、高橋至時やその子、高橋景保・渋川景佑(高橋景佑。渋川家に養子となった)らによって惑星を含めた暦計算理論であるラランデ暦書の訳本「新巧暦書」を完成させた。同じ頃天文方に属する山路諧孝もまたオランダの暦書の訳本「西暦新編」を完成させた。
     途中、高橋景保がシーボルト事件に巻き込まれて獄死(高橋家は断絶)するなどのトラブルがあったが、天保十二年(AD 1841)に渋川景佑に「新巧暦書」「西暦新編」を用いて改暦を進めるようにとの命令がくだり、これを受けて天保の改暦が行われ、弘化元年(AD 1844)から天保暦による暦編纂が行われるようになった。

     天保暦は、寛政暦以前の暦とは大きく異なる点がある。
    1. 定気法の採用
       季節と暦日を結びつけるために使われる二十四節気の計算を従来の恒気法(日数で等分する方法)から定気法(太陽の視黄経で等分する方法)に変更した(参考とした清の時憲暦に倣ったものと考えられる)。
    2. 不定時法の採用
      明け六ッ・暮れ六ッと日の出・入りを基準とした民間で便宜的に使われていた不定時法を採用した。
     どちらも「実測と合う暦」と言うことを強調したいために行ったものかと想像することは出来るが、一年や、一月、一日と言った時の流れを測る基準とされる暦にこの二つを取り入れたことによって、暦の規則性を著しく損なうこととなり、精度の善し悪しを問題とする以前に、暦とは何かと言った根本的な考え方を誤った改暦という気がしてならない。
     不定時法の導入は論外だが、定気採用も暦を作る上では害が多く益の少ない(益は無いかな?)ことであって、それがために天保暦の置閏法は煩雑なものとなり、その煩雑な操作をしても、閏月の季節毎の偏在と言った不具合を生み出してしまうこととなった。

  12. いわゆる旧暦の誕生
     天保暦は明治5年まで使われ、その後を太陽暦であるグレゴリオ暦に譲ることとなった。
     天保暦は、日本で公的に作られた最後の太陰太陽暦である。その後「非公式の暦」として使われ続けることになったいわゆる「旧暦」もこの暦の考え方を踏襲して作られている。
     天保暦の解説に書いたとおり、天保暦は暦としては甚だ問題の多い暦である。それでも現実には29年始か使われなかったし、これを管理する公的な機関が存在したため、その欠点はあまり表に現れることも無かったが、その問題の多い暦を150年も無批判に使っているものであるから、色々問題が現れてくる。まあ、「大安だ、仏滅だ」と言うことだけの話しで旧暦を語るレベルであればどうでもいいんだけれど。

     宣明暦の解説の中でも書いたことですが、
      「暦注には興味があっても暦には興味のない」
    という日本人の性質は千年経っても代わっていないと言うことか。なんだか悲しいな。

余 談
今後も・・・
 最初にも書いたとおり、この記事は私の覚え書き的な内容ですので、時々書き込みが増減することがあると思いますが、ご勘弁願います。
「宝暦暦」は「ほうれきれき」?
 「宝暦暦」というなんだか読みにくいこの名前についてちょっと触れることにします。
 宝暦暦は宝暦という年号の時代に使われ始めたからこの名前がついたわけですが、この年号宝暦は、

  宝暦 → ほうれき ×   ほうりゃく ○ 

です。ですから宝暦暦は、「ほうりゃくれき」が正しい。

 年号で治暦・承暦・明暦・宝暦など「暦」がつくばあいはこの文字は「れき」とは読まず「りゃく」と読みます。時代劇やクイズ番組などで、こういった年号を「めいれき」なんて具合に呼ぶことがあるようですが間違いです。気をつけましょう。
※記事更新履歴
初出 2005/01/08

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