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お彼岸の日付の変遷
    現在のお彼岸は春と秋に、春分の日・秋分の日を中日としてその前後3日、つまり計7日間がその期間となっています。今回の話しは、お彼岸は昔からこの時期で、この期間だったかと言うことについてです。
 彼岸の意味や行事については、「お彼岸の話し」に書きましたので、そちらをご覧ください。

始まりはいつものように質問から。

宣明暦の頃は、恒気法二十四節気の春分(秋分)の翌々日を彼岸の入りとしていたようです。
で、ここからが質問なんですが、彼岸の期間は何日間だったのでしょうか・・・
  (質問者:イ○○さん 2005/1/4 のこよみのページの掲示板より引用)


言われて初めて調べてみました。どこかで読んだ気がと思い当たる本をあたっていたところ「暦と日本人」(内田正男著)にその辺の記述がありました。その結果をまとめると次のようになります。

彼岸の日付の変遷
春の
日付
862(?)年
〜1754年
1755年  
〜1843年
1844年〜 秋の
日付
宣明・貞享
宝暦・寛政
天保・現在
3/16    
7日
    9/18
3/17         9/19
3/18       春・秋
7日
9/20
3/19       9/21
3/20    
7日
9/22
3/21  
7日
9/23
3/22   9/24
3/23     9/25
3/24     9/26
3/25
7日
    9/27
3/26     9/28
3/27       9/29
3/28         9/30
3/29         10/1
3/30         10/2
3/31         10/3
 参考のため表の右端・左端には新暦での日付を記入しています。
 何時の時代も彼岸は、春分・秋分の日の近辺に置かれていますが、二十四節気の計算方式が宣明暦〜寛政暦では恒気法、天保暦〜現在は定気法という異なった方式によって計算されているため、春分・秋分の日付は異なります。参考まで西暦2000年頃の春分・秋分の日付を恒気法と定気法で計算すると、
 恒気法
  春分 3/23頃、秋分 9/21頃
 定気法
  春分 3/21頃、秋分 9/23頃
となります(年によって 1日程度変化します)。

 なお、普通「春彼岸」とは言わず「彼岸」と言います(「秋彼岸」とは言う)。表では、秋との区別のため春彼岸と言う言葉を使いました。

補足説明
  1. 〜五紀暦 (〜AD 861年)つまりうーんと昔
     日本後記によれば延暦二十五年(=大同元年 AD 806年)二月に崇道天皇を慰めるために諸国分寺にて金剛経を読ませたというのが「彼岸会」の初出だそうです。
     延暦二十五年というと、大衍暦が使用されていた時代ですが、彼岸は暦注、それも雑節ですので、大衍暦・五紀暦・宣明暦といった中国伝来の暦法とは関係ない話しなので、暦法から彼岸が何時行われたと言うことはわかりません。
     そもそも、全ての行事を「暦」に書くわけではないので、暦注として記載されたのは大分後のことなのでしょう。暦注としていつ頃から記載されるようになったのかは、今回はわかりませんでしたので、また後ほどわかったときに書かせて頂きます。ごめんなさい。
  2. 宣明暦・貞享暦(AD 862〜1754年) 日本の中世時代です。
     宣明暦の暦注における彼岸は、春分・秋分の日から数えて3日目(と言うことは2日後)が彼岸の入りとなりました。ただし、春秋分日から彼岸の入りの間に「没日(もち)」が入った場合は、彼岸の入りはもう一日遅れます(没日は正式な日付としては数えないことになっていたから)。
     最も、この話は宣明暦時代の話しで、貞享暦からは「没日」の制度が廃止されましたから、関係なくなりました。
     旧い暦関係の書物での彼岸の説明を読むと、「二八月中後二日を彼岸入り・・・」と言った記述がありますが、この「二八月中」は春分・秋分が二月中(気)・八月中(気)だからです。

     なお、蜻蛉日記(AD 975成立)・源氏物語(AD1010頃成立)などにも登場「彼岸の入り」や「彼岸のはて」が現れるので、そのころにはポピュラーな行事になっていたようです。

  3. 宝暦暦・寛政暦(AD1755〜1843) イレギュラーな彼岸の日付
     「彼岸は昼夜等分にして、天地の気ひとしき時なり。
      前暦の注する所、これに違えり」
     
    と言う理由で、宝暦暦では、彼岸の時期をそれまでの暦と変えています。要するに、
     「彼岸は昼と夜の長さがおなじだとと言われているのに、前の暦の日付はそうなっていなかったから、昼と夜の長さが同じになる正しい日付に直したのさ」 
    と自慢げに書いているのですが、彼岸はあくまでも仏教から出た一暦注・雑節です。本来暦学とは何の関係もないものです。
     昼と夜の長さなんて、「昼・夜を何を基準に分けるか」といった定義によっても変わってしまうもので、そんなものを持ち出して暦注の日付がが正しいの間違っているのと、公の暦が言及するような問題ではないという気がします(「大人げない」ということですね)。
     まあ、宝暦暦は、暦としてはこれと言って見るべき所のない暦で、「将軍様のご意向で仕方なく改暦した暦」といった感じですから、なにか目新しいことが書きたかったのでしょうね。
     何はともあれ、この時代は「昼夜等分」に重点を置いたため、春分と秋分では、彼岸と春分・秋分日の関係が変わります。このため表では「春」「秋」二つに分けました。
  4.  天保暦から、春分日・秋分日を中日としてその前3日・後3日の計7日間を彼岸と呼ぶようになりました。
     現在の彼岸の期間はこの方式で決められています。

     また天保暦は、それ以前の暦が恒気によって二十四節気を求めていたのに対して、定気によって二十四節気を求めるようになりましたので、春分・秋分の日付も違ったものになります。
     表における春分・秋分の日付は、彼岸と春分・秋分の日との関係をわかりやすく示すためにつけた日付ですので、正確なものではありませんから、あくまでも「参考として」ご覧ください。

出典紹介 
 左の表は前出「暦と日本人」の内容をまとめただけのものに過ぎません。大変参考になったというか、そっくり使わせて頂いたに近いですから、「ほー」と感心なさった方は、元になった本も手にとってご覧ください。
 「暦と日本人」・・・内田正男著 雄山閣出版
がその本です。

大分以前に読んだはずでしたが、内容のあちこちを忘れてしまっていて、今回改めて思い当たった本をひっくり返していて発見しました。

余 談
彼岸が暦に載るようになった理由
 「江戸の歳事風俗史」に「国史大事典」の引用がありました。それによると、

 昔(彼岸会の)談義説法は比叡山の坂本に限って行われていた。
 都鄙の人々はこの説法を聞きたいがために群れ集うのだが、その年の彼岸の日付がよくわからないので難儀するからと、比叡山からの要請があって、これを暦に載せるようになった。

と言う事柄が書かれておりました。
僧の説法を聞きたいために「群れ集う」って言うのがすごいですね。現在の葬式仏教からは想像も出来ない、まだ仏教が生きていた頃の話しでしょうか。
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