お彼岸の日付の変遷
お彼岸の日付の変遷
墓参り 現在のお彼岸は春と秋に、春分の日・秋分の日を中日としてその前後3日、つまり計7日間がその期間となっています。今回の話しは、お彼岸は昔からこの時期で、この期間だったかと言うことについてです。
 彼岸の意味や行事については、「お彼岸の話し」に書きましたので、そちらをご覧ください。

 今回の話も、始まりはいつものように質問から。

宣明暦の頃は、恒気法二十四節気の春分(秋分)の翌々日を彼岸の入りとしていたようです。
で、ここからが質問なんですが、彼岸の期間は何日間だったのでしょうか・・・
  (質問者:イ○○さん 2005/1/4 のこよみのページの掲示板より引用)


 言われて初めて調べてみました。どこかで読んだ気がと思い当たる本をあたっていたところ「暦と日本人」(内田正男著)にその辺の記述がありましたので,時代順に彼岸の日付を追ってみることにしましょう。
 なお、異なる暦の日付そのものを比較しても意味が無いので、ここでは当時の使われていた暦の暦日を現在使われている暦(グレゴリオ暦、いわゆる新暦)の日付に変換して比較してみることにします。

 何時の時代も彼岸は、春分・秋分の日の近辺に置かれていますが、二十四節気の計算方式が宣明暦〜寛政暦では恒気法、天保暦〜現在は定気法という異なった方式によって計算されているため、春分・秋分の日付は異なります。二つの計算方式の違いは、簡単に言えば恒気法は1年の日数(約365.24日)を24等分(約15.22日づつ)し、冬至の瞬間を基点にして、等分した日数を積算して二十四節気の節入りの日を求める方式で、定気法は太陽が一年間で一巡する黄道と呼ばれる天球上の大円を角度で24等分(15°づつ)し、これも冬至を基点として積算して、黄道上の規定の角度を太陽が通過する瞬間を含む日を二十四節気の節入り日とする方式です。恒気法は日数で区切り、定気法は角度で区切ると言うわけです。
 もし、地球の公転軌道が円軌道であるならば、恒気法も定気法も違いはないのですが、実際の地球の公転軌道は楕円であるため、両者の方式で計算した二十四節気の日付は2〜3日異なる場合があります。ちなみに、西暦2000年頃の春分・秋分の日付を恒気法と定気法で計算すると
 恒気法:春分 3/23頃、秋分 9/21
 定気法:春分 3/21頃、秋分 9/23
となります(年によって 1日程度変化します)。この差は、数百年経過してもそれほど変わりませんので、今回は過去も上記の日付頃に春分の日、秋分の日があったとして考えることにします。

 では、こうした条件で使用された暦法毎に、彼岸の日付がどのように変わったかを、暦法を追って(時代を追って)見てみましょう。
  1. 〜「五紀暦」 (〜AD 861年,〜平安時代初期)
     日本後記には延暦二十五年(=大同元年 AD 806年)二月に崇道天皇を慰めるために諸国分寺にて金剛経を読ませたとあり、これが「彼岸会」の初出だそうです。
     延暦二十五年というと、大衍暦が使用されていた時代ですが、彼岸は暦注、それも雑節ですので、大衍暦・五紀暦・宣明暦といった中国伝来の暦法とは関係ない話しなので、暦法から彼岸が何時行われたと言うことはわかりません。
     そもそも、全ての行事を「暦」に書くわけではないので、この時代の彼岸会が何日に行われたのかは調べ切れませんでした。申し訳ない。

  2. 「宣明暦」・「貞享暦」 (AD 862〜1754年,平安時代初期〜江戸時代前期)
    宣明暦・貞享暦時代 日本の中世〜近世の時代です。この間の暦の春分・秋分は恒気法によって計算されており、グレゴリオ暦では3/23,9/21頃となります。宣明暦の暦注における彼岸は、春分・秋分の日から数えて3日目(と言うことは2日後)が彼岸の入りとなり、この日から7日間が彼岸の期間となります。その期間を表したのが右の表です。
    ただし、宣命暦では「没日(もち)」と呼ばれる暦注計算では日付として数えない日があるため、春秋分日から彼岸の入りの間に没日が入った場合は、彼岸の入りはもう一日遅れます。この没日は宣命暦の後に使用された貞享暦では「没日」の制度が廃止されました。
     旧い暦関係の書物での彼岸の説明を読むと、「二八月中後二日を彼岸入り・・・」と言った記述がありますが、この「二八月中」は春分・秋分が二月中(気)・八月中(気)だからです。

     なお、蜻蛉日記(AD 975成立)・源氏物語(AD1010頃成立)などにも登場「彼岸の入り」や「彼岸のはて」が現れるので、そのころにはポピュラーな行事になっていたようです。

  3. 「宝暦暦」・「寛政暦」 (AD1755〜1843年,江戸時代後期)
    宝暦暦・寛政暦時代 「彼岸は昼夜等分にして、天地の気ひとしき時なり。前暦の注する所、これに違えり」 
    と言う理由で、宝暦暦では、彼岸の時期をそれまでの暦と変えています。要するに、
     「彼岸は昼と夜の長さがおなじだとと言われているのに、前の暦の日付はそうなっていなかったから、昼と夜の長さが同じになる正しい日付に直したのさ」 
    と自慢げに書いているのですが、彼岸はあくまでも仏教から出た一暦注・雑節です。本来暦学とは何の関係もないものです。
     昼と夜の長さなんて、「昼・夜を何を基準に分けるか」といった定義によっても変わってしまうもので、そんなものを持ち出して暦注の日付がが正しいの間違っているのと、公の暦が言及するような問題ではないという気がします(「大人げない」ということですね)。
     まあ、宝暦暦は、暦としてはこれと言って見るべき所のない暦で、「将軍様のご意向で仕方なく改暦した暦」といった感じですから、なにか目新しいことが書きたかったのでしょうね。
     ただ彼岸の中日を昼夜当分の日となるように修正した結果、彼岸はこの後に登場する二十四節気に定気法を採用した天保暦および現代の暦と同じ時期に移動しました。

  4. 「天保暦」〜現在 (AD1844年〜,江戸時代末期〜)
    天保暦以降 天保暦から、春分日・秋分日を中日としてその前3日・後3日の計7日間を彼岸と呼ぶようになりました。現在の彼岸の期間はこの方式で決められています。

     また天保暦は、それ以前の暦が恒気によって二十四節気を求めていたのに対して、定気によって二十四節気を求めるようになりましたので、春分・秋分の日付も違ったものになります。
     表における春分・秋分の日付は、彼岸と春分・秋分の日との関係をわかりやすく示すためにつけた日付ですので、正確なものではありませんから、あくまでも「参考として」ご覧ください。
彼岸の日の変遷 以上の説明を一つの表にまとめると右のようになります。
 右の表は前出「暦と日本人」の内容をまとめただけのものに過ぎません。大変参考になったというか、そっくり使わせて頂いたに近いですから、「ほー」と感心なさった方は、元になった本も手にとってご覧ください。

 「暦と日本人」 
  内田正男著 雄山閣出版

がその本です。
 大分以前に読んだはずでしたが、内容のあちこちを忘れてしまっていて、今回改めて思い当たった本をひっくり返していて発見しました。


「彼岸の日付の変遷」の表の宝暦・寛政の彼岸の表示が間違っていました(定気法による春分・秋分を基準に描いてしまっていた)。
読者の方からご指摘を頂き、修正しました。
ご迷惑をおかけしました(2020.09.21)。
余 談
彼岸が暦に載るようになった理由
 「江戸の歳事風俗史」に「国史大事典」の引用がありました。
それによると、

 昔(彼岸会の)談義説法は比叡山の坂本に限って行われていた。
 都鄙の人々はこの説法を聞きたいがために群れ集うのだが、その年の彼岸の日付がよくわからないので難儀するからと、比叡山からの要請があって、これを暦に載せるようになった。

と言う事柄が書かれておりました。
僧の説法を聞きたいために「群れ集う」って言うのがすごいですね。現在の葬式仏教からは想像も出来ない、まだ仏教が生きていた頃の話しでしょうか。
※記事更新履歴
初出 2005/1
追加 2020/09/21 「彼岸の日付の変遷」の誤り修正&画像化
追加 2022/03/05 表の追加。説明文の一部修正
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