暦と天文の雑学
http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0103.html
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明治改暦の周辺事情・国家財政の危機?
日本で現在の暦が正式に施行された年は明治6年(西暦1873年)。これまで使われていた太陰太陽暦(天保壬寅暦)が廃され、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)が正式な暦とされました(正確にはこの時点ではグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦でした)。これが一般に「明治改暦」と呼ばれる改暦です。
この明治改暦には、有名なエピソードがあります。
明治6年以前にも、日本の暦を諸外国で通用している太陽暦へ移行させるという話は、一部知識人や政府の要人の間では議論されていたようですが、国民の生活に深く根付いている暦を変更することは、その影響を考えればおいそれと出来ることではなく、なかなか捗りませんでした。しかしながら当時の「明治政府」が抱えていた改暦以上の大問題が、難しい改暦への決断を促すきっかけになりました。
その大問題とは・・・「財政難」。そう、明治政府は大変貧乏だったのです。
徳川幕府から政権を引き継いだばかりの明治政府でしたが、何かをしようにも、とにかく先立つお金がなかった。とはいえ、お金がないからと言っても、なにもしないというわけにはいきません。それに政府には沢山の公務員がいますから、その沢山の公務員には、月々の月給を払わなければなりません。ちなみに幕府の時代は年間「××石」という年棒制をとっていましたが、明治政府の公務員の給与は現在と同じ月給制でした。当たり前のことですが、月給制ですから、毎月毎月、暦月の回数だけ公務員に給与を支払う必要があります。
ところが、間の悪いことに明治6年という年は、その当時に使用されていた暦であった天保暦(いわゆる旧暦)によれば、およそ3年に1度めぐってくる、閏月(うるうづき)が挿入されて1年が13ヶ月ある閏年だったのです。江戸時代のような年棒制であったならば何の問題もないことですが、月給制にしたばかりに明治6年は12回ではなく、1回余分な13回の月給を支払わないといけないことになります。苦しい財政の明治政府には頭の痛い話だったわけです。
ここで、頭痛の種を取り除いてくれる秘策として登場っしたのが「改暦」です。太陽暦には閏月は存在しませんから、太陽暦に改暦してしまえば今後「閏月」とは未来永劫おさらばできます。月給を13回支払う必要のある年もやってきません。
その上、太陽暦による明治6年の1月1日は旧暦では明治5年12月3日です。明治5年と6年の間で改暦してしまえば明治5年の12月は2日しかない月になります。「2日しか働かないのに12月の月給くれはないだろう」と言う理由で12月分の月給は支払わないことにしてしまえば、都合2ヶ月分の給料を「合理的な理由」により支払わないで済んでしまうのでした。
どうやら、この「絶妙のタイミング」に気がついたのは年末が近い時期だったようです。ですが、この機を逃すわけにはいきません。急いで改暦を行う必要がありました。そのために改暦の発表は、なんと旧暦による「明治6年の暦」が発行された後となってしまいました。当時は政府が認めた暦(官許の暦、官暦)以外の刊行は認められていませんでした。また官許の暦は、政府が編纂した暦を独占的な権利を与えられた特定の民間業者が出版販売を行っていました。明治政府は暦の出版販売の独占権と引き替えに、民間業者から冥加金を得ていました。
旧暦による明治6年の暦も、この方式で刊行されました。つまり民間業者は政府に冥加金を納入した上で出版したのですが、その出版が済んだ後にいきなり政府が改暦を実行したのでした。冥加金を納めて出版した業者からすれば、印刷した暦が全部、ただの紙切れになってしまったわけで、大変な損害を被りました。業者から見れば、まるで政府による詐欺に遭ったようなものです。こんなことをしてまで、このタイミングで改暦したことを考えると「なりふり構っていられない」という明治政府の事情が垣間見られます。
この明治改暦が行われたことによって、天保壬寅暦は晴れて「旧暦」となったわけです。目出度し目出度し。
付 録
天保暦から太陽暦への改暦は次の太政官達第三百三十七号による。太政官達は現在の政令にあたるもので、第三百三十七号は現在もまだ有効な法令です。参考までに必要な箇所を抜き出して記します。
ちなみに、上の太政官達はよく見ると現在使われているグレゴリオ暦ではありません。このまま読むとユリウス暦のように必ず4年に1度閏年がめぐってきます。この誤りに気が付いて、明治31年に次の勅令が出ます。
2001/01/29 初出
2022/01/03 文体等修正・画像追加
日本で現在の暦が正式に施行された年は明治6年(西暦1873年)。これまで使われていた太陰太陽暦(天保壬寅暦)が廃され、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)が正式な暦とされました(正確にはこの時点ではグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦でした)。これが一般に「明治改暦」と呼ばれる改暦です。
この明治改暦には、有名なエピソードがあります。
明治6年以前にも、日本の暦を諸外国で通用している太陽暦へ移行させるという話は、一部知識人や政府の要人の間では議論されていたようですが、国民の生活に深く根付いている暦を変更することは、その影響を考えればおいそれと出来ることではなく、なかなか捗りませんでした。しかしながら当時の「明治政府」が抱えていた改暦以上の大問題が、難しい改暦への決断を促すきっかけになりました。
その大問題とは・・・「財政難」。そう、明治政府は大変貧乏だったのです。
徳川幕府から政権を引き継いだばかりの明治政府でしたが、何かをしようにも、とにかく先立つお金がなかった。とはいえ、お金がないからと言っても、なにもしないというわけにはいきません。それに政府には沢山の公務員がいますから、その沢山の公務員には、月々の月給を払わなければなりません。ちなみに幕府の時代は年間「××石」という年棒制をとっていましたが、明治政府の公務員の給与は現在と同じ月給制でした。当たり前のことですが、月給制ですから、毎月毎月、暦月の回数だけ公務員に給与を支払う必要があります。
ところが、間の悪いことに明治6年という年は、その当時に使用されていた暦であった天保暦(いわゆる旧暦)によれば、およそ3年に1度めぐってくる、閏月(うるうづき)が挿入されて1年が13ヶ月ある閏年だったのです。江戸時代のような年棒制であったならば何の問題もないことですが、月給制にしたばかりに明治6年は12回ではなく、1回余分な13回の月給を支払わないといけないことになります。苦しい財政の明治政府には頭の痛い話だったわけです。
ここで、頭痛の種を取り除いてくれる秘策として登場っしたのが「改暦」です。太陽暦には閏月は存在しませんから、太陽暦に改暦してしまえば今後「閏月」とは未来永劫おさらばできます。月給を13回支払う必要のある年もやってきません。
その上、太陽暦による明治6年の1月1日は旧暦では明治5年12月3日です。明治5年と6年の間で改暦してしまえば明治5年の12月は2日しかない月になります。「2日しか働かないのに12月の月給くれはないだろう」と言う理由で12月分の月給は支払わないことにしてしまえば、都合2ヶ月分の給料を「合理的な理由」により支払わないで済んでしまうのでした。
どうやら、この「絶妙のタイミング」に気がついたのは年末が近い時期だったようです。ですが、この機を逃すわけにはいきません。急いで改暦を行う必要がありました。そのために改暦の発表は、なんと旧暦による「明治6年の暦」が発行された後となってしまいました。当時は政府が認めた暦(官許の暦、官暦)以外の刊行は認められていませんでした。また官許の暦は、政府が編纂した暦を独占的な権利を与えられた特定の民間業者が出版販売を行っていました。明治政府は暦の出版販売の独占権と引き替えに、民間業者から冥加金を得ていました。
旧暦による明治6年の暦も、この方式で刊行されました。つまり民間業者は政府に冥加金を納入した上で出版したのですが、その出版が済んだ後にいきなり政府が改暦を実行したのでした。冥加金を納めて出版した業者からすれば、印刷した暦が全部、ただの紙切れになってしまったわけで、大変な損害を被りました。業者から見れば、まるで政府による詐欺に遭ったようなものです。こんなことをしてまで、このタイミングで改暦したことを考えると「なりふり構っていられない」という明治政府の事情が垣間見られます。
この明治改暦が行われたことによって、天保壬寅暦は晴れて「旧暦」となったわけです。目出度し目出度し。
付 録
天保暦から太陽暦への改暦は次の太政官達第三百三十七号による。太政官達は現在の政令にあたるもので、第三百三十七号は現在もまだ有効な法令です。参考までに必要な箇所を抜き出して記します。
- 太政官 達 五年十一月九日 第三百三十七号
- 今般改暦ノ儀、別紙詔書ノ通、仰セ出サレ候条、此旨相達シ候事
朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度ニ合ス。故ニ二三年間、必ズ閏月ヲ置カザルヲ得ズ、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生ズルニ至ル、殊ニ、中・下段ニ掲ル如キハ、率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ、蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年後僅ニ一日ノ差ヲ生ズルニ過ギズ。之ヲ太陰暦ニ比スレバ、最モ精密ニシテ、其便・不便モ因ヨリ論ヲ挨タザルナリ、依テ、今ヨリ旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官・有司、其レ此旨ヲ体セヨ。
明治五年壬申十一月九日
- この詔書の主旨を実行に移すために太政官は次の布告を出しました。
- 一、今般太陰暦ヲ廃シ、太陽暦御頒行相成候ニ付、来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト定メラレ候事、
但、新暦鏤板出来次第、頒布候事。
- 一、一箇年三百六十五日、十二箇月ニ分チ、四年毎ニ一日ノ閏ヲ置キ候事。
- 一、時刻ノ儀、・・・・(以下省略)
- 一、一箇年三百六十五日、十二箇月ニ分チ、四年毎ニ一日ノ閏ヲ置キ候事。
ちなみに、上の太政官達はよく見ると現在使われているグレゴリオ暦ではありません。このまま読むとユリウス暦のように必ず4年に1度閏年がめぐってきます。この誤りに気が付いて、明治31年に次の勅令が出ます。
- 明治三十一年 勅令第九十号
- 神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス。但シ、紀元年数ヨリ六百六十ヲ減ジテ百ヲ以テ整除シ得ベキモノノ中、更ニ、四ヲ以テ其数ヲ整除シ得ザル年ハ平年トス
- 余 談
- 旧暦の最後の年は?
- 法律上は、明治6年からは新暦となり旧暦は使われなくなったはずですが、こういったものは「変えます」といって直ぐに変わるものではないので、官暦にも明治42年の暦まで旧暦の日付が参考として記されておりました。明治43年以後は官暦からは旧暦は全く姿を消して今に至ります。
- 神武天皇即位紀元
- 紀元26xx年なんていうと、国粋主義者と言われそうですが実のところまだこの「神武天皇即位紀元」は法律上生きています。
何に使っているかというと、それは閏年の計算根拠。そうです、明治31年に出された置閏法を定めた勅令第九十号が現在の閏年の根拠で、その中で「神武天皇即位紀元」が使われているのです。この勅令に変わる法律が出来るまでは、僅かながら「神武天皇即位紀元」の年数が必要なのです。
2001/01/29 初出
2022/01/03 文体等修正・画像追加
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