もう一つの名月・九月十三夜の月
もう一つの名月・九月十三夜の月
月見の月 前回、中秋の名月(旧暦八月十五日)の話題を書いたところ複数の方から、
「十三夜の月」はいつですか?
というお問い合わせを頂きました。
 中には、「十五夜の月と十三夜の月はどちらも月見しないと片月見(かたつきみ)といって、良くないことだと教えられたのですが」といった方までいらっしゃいました。日本の伝統文化が失われつつあると嘆かれる昨今、「まだまだ日本人も捨てたもんじゃないな」と一人、感心しておりました。

 それでは捨てたもんじゃない方々のため、左にに最近5年間の十三夜の日付を掲載することに致します。
 旧暦九月といえば秋の終わり、晩秋(季秋)の月です。台風のシーズンもほぼ終わって天候も安定してきますから、お月見にはこちらの方がよいかも知れませんね?

十三夜の月見 
 十三夜の月見は、一月前の中秋の名月の月見に対して後の月見と呼ばれます。
 中秋の名月は中国で行われていた行事ですが、こちら十三夜の月見は日本独特の風習です。その始まりは宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことだといわれます。また醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦 919年)に開かれた観月の宴が風習化したのが始まりとも言われます。
 ですが、「ではなぜ宇多法皇がわざわざこの日に月見をして、『無双の月』なんて評することになったのかと考えると、本当はそういった風習がすでに存在して、それが追認される形で宮廷行事に取り入れられたと言うのが本当ではないかと私は推測しています。確たる証拠はないのですが。

豆名月栗名月 
栗 中秋の名月を「芋名月というのに対し、九月十三夜の月を豆名月あるいは栗名月といいます。作物の収穫時期が芋より豆・栗の方が遅いと言うことですか。
 ただし、この呼び名に関しては、地方によっては

   芋名月 ←→ 栗名月

 が逆転している地域もあるようです。
 例えば山形県の米沢市近辺では、逆転しているのですが、こうした地域は他
 にもあるようです。
 なぜ逆になっているのか。地域によって、作物の実る時期に違いがあるってことなのでしょうね。

片月見(かたつきみ) 
 東京近辺では、十五夜の月と十三夜の月は同じ庭で見るもととされ、別のところで見ることを「片月見」あるいは「片見月」といって嫌ったそうです。私の生まれたところでは聞かない風習です。
片月見の禁忌は遊里の営業戦略? (2009.10.3 追記)
江戸では片月見は「片付見」に通じるとして忌まれたとか。
中秋の月見を自宅以外で眺めると、片月見とならないように後の月見も中秋の月見をした場所に出かけていって眺めないといけない。

吉原この慣習は江戸の遊里、吉原の客寄せの一環として生まれたという説があります。中秋の名月の日を吉原で遊べば、片月見を避けるためには必然的に後の月の日も登楼しなければならないようになると言うわけです。

これだけが本当に片月見の禁忌の原因かは疑わしいところもありますが、その影響もきっとあったろうとは考えられます。吉原ではどちらの月見の日も「紋日」という特別な日とされ、客達はいつも以上に気前のよいところを見せるために散財したとか。そのためでしょうか、

 月宮殿へ二度のぼるいたい事 

といういう川柳も残っています。ちなみに「月宮殿」は吉原の別名。見栄を張る客達の懐は大分「痛い事」がよくわかります。

十五夜 VS 十三夜
十五夜と十三夜の月
 十五夜の月  十三夜の月 
十五夜と十三夜の月の姿 
 右の画像は十五夜の月と十三夜の月の画像を比較のために並べたものです。違いが無いとは言いませんが、一目見てすぐに違いがわかるほど違っているとも思えません。このサイトの作者はいい加減ですので「どっちでもいいんじゃない」と言っちゃいそうですが、わかる人にはわかって、気になってしかたがないのかな??
余 談
 八月十五日、九月十三日は婁宿なり
月見うさぎ徒然草二百三十九段に「八月十五日、九月十三日は婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明なるが故に月をもてあそぶに良夜とす」と有ります。

ここで云う「宿」とは二十八宿のこと。ただし兼好法師の時代の暦(宣明暦)ではインド式の二十七宿を使っていました。この二十八宿(二十七宿も同じ)の「宿」は、もともと月がその日どの星座(中国式の星座)に有るかを表したものでした。「婁宿」の婁は星座の名前です(現在のおひつじ座の頭辺りです)。

この宣明暦の二十七宿方式では、確かに八月十五日と九月十三日の星宿は「婁」ですので、どちらの日も月はほぼ同じ星座の方角に見えたことになります。月は一暦月の間に日付で云えば大体二日分だけ星宿が進みますから、八月の十五夜と九月の十三夜が同じ星宿になるのは、あたりまえといえばあたりまえなのですが、二つの月見の日は月が同じ星座(星宿)にあったと云うのは、なんだか不思議な気がしますね。

ただし、月が本当に「婁宿」に見えた時代は大体2000年くらい前のこと。兼好法師が生きていた時代だと、月は地球の歳差運動という動きの影響で星宿1〜2宿分くらい遡って「奎宿」か「壁宿」辺りにあったはずです。まあ、細かなことは云わないことにしましょう。
ちなみに、現代なら月は「危宿」か「室宿」(ペガスス座〜みずがめ座)あたりに見えるはずです。
※記事更新履歴
初出 2000/10/01
修正 2021/11/15 文章の修正&画像追加
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