「建国記念の日」の日付の意味
「建国記念の日」の日付の意味
 2月11日は建国記念の日です。
  建国をしのび、国を愛する心を養う 
梅花というのが建国記念の日の意味として国民の祝日に関する法律に書かれています。

 この建国記念の日の2月11日は明治憲法下の時代には紀元節(きげんせつ)と呼ばれる祝日でした(この時期に咲く花の名をとって「梅花節(ばいかせつ)」とも呼ばれました)。名前は変わりましたが日付を見れば戦前から続く祝日と言うことが出来そうです。
 この記事では、この祝日がなぜ「2月11日となったのか」という、日付にまつわる話題を採り上げてみたいと思います(「こよみのページ」の記事ですからね)。

国民の祝日に関する法律の中の「建国記念の日」 
 国民の祝日に関する法律(以下「祝日法」)には、それぞれの祝日の日付と意味が書かれており、その書き方は次のようになっています。
  • 元日 一月一日
    年の始めを祝う。
  • 成人の日 一月の第二月曜日
    おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
  • 建国記念の日 政令で定める日(2月11日)
    建国をしのび、国を愛する心を養う
     (以下省略)
日本の祝日 これをご覧になってお気づきでしょうか?
 祝日法には、祝日名とその日がいつになるかが書かれ、その後にその祝日の意味が書かれています。他の祝日の多くは、元日のようにその日付が直接書き込まれています。また、成人の日のように「一月の第二月曜日」のような日付が移動するルールを書いたものもあります。ところが、この建国記念の日に関しては一風変わった書き方になっています。「政令で定める日」というのがそれです。建国記念の日だけはその日付がこの法律だけでは決められず、別途政府が発する政令にゆだねられていると言うことです。なぜこんな面倒なことになったのでしょうか。

GHQ に許されなかった「建国記念の日」 
 建国記念の日は、戦前は紀元節といいました。日本書紀によればこの日は天皇家の祖とされる神武天皇が即位した日の日付を新暦(グレゴリオ暦)の日付に変換したものです。
 戦後、日本国憲法下で再び祝日が作られることになったとき、どのような日を祝日に取り上げるべきか国民の意識をアンケート調査しているのですが、その結果は、元日、天皇誕生日に次いで第3位、 80%を越える支持を得た祝日が建国記念日で、その日付は紀元節と同じ2月11日でした。しかしこの祝日については当時、事実上日本を統治していたGHQが許しませんでした。GHQ は戦前の日本のような、天皇家を中心とした国家神道による大日本帝国の復活を恐れましたから、神武天皇即位の日を祝った紀元節の復活のような祝日を許すことは出来なかったのです。
世論の希望した祝祭日
(1948年 総理庁世論調査 (対象人数6000))
順位名称案日付案集計比率
新年・正月 1月 1日99.9%
天皇誕生日・天長節 4月29日86.7%
建国の記念日・紀元節 2月11日81.3%
お盆・祖先の日 7月15日または
8月15日
80.1%
平和記念日・平和祭講和条約の締結日71.8%
6位以下省略 ※受田新吉著「新しい日本の祝日」より

「建国記念の日」の祝日と日付の決定(昭和41年) 
 戦後の祝日法が成立したのは昭和23年のことですが、サンフランシスコ条約締結後も戦前の国家主義、軍国主義(この辺については異論もあるところですが)を象徴する紀元節の復活とも見られる建国記念日の祝日化は難航し、「建国記念の日」が祝日の列に加わることが出来たのは、他の祝日に遅れること18年の昭和41年の7月でした。しかし、この時点でも決定出来なかったものがあります。それは日付です。日本の建国の日とはいつなのかという議論が決着しなかったのです。
 このため、法律において祝日化は決定したけれど、その日付については引き続き審議委員会で検討し、その答申を待って6ヶ月以内に政令で公布することとなりました。そのため祝日法の祝日の日付の箇所には「政令で定める日」と書かれることになったわけです。こうして建国記念の日の日付の審議は9名の委員からなる審議会で行われることになりました。審議会が出来て先ず行われたのは、建国記念の日に相応しいと考えられる日の世論調査でした。その結果は次の通り。
アンケート結果
建国記念の日に冠する世論調査(内閣府世論調査HPより)
1位 2月11日(47%)
2位 5月 3日(10%)
3位 4月 3日( 6%)
ご覧のとおり、2月11日案が他を圧倒しました。
 この結果だけを見ると審議は簡単に終わりそうに思えるのですが、2月11日という日付は歴史的根拠のない政治的に作られた建国神話に基づくものだといった考えからの反対もあり、審議会から答申が出されたのは法律の定めた期限に近い12月8日のことでした(結果は2月11日案)。これを受けて翌日12月9日にようやく建国記念の日の日付を「二月十一日とする」という政令が公布されました。こんな紆余曲折を経てようやく
 
 建国記念の日 政令で定める日(2月11日)
に日付が決定したのでした。日付を決めるだけでも、いろいろ大変でしたね。

日本の建国の日っていつ? 
建国記念の日と神武天皇 「建国記念の日」の日付を決めるだけでなぜこんなに大変だったかといえば、その理由は「日本の建国の日が判らないから」に他なりません。
 現在の「建国記念の日」の日付は、日本書紀に書かれた初代の天皇とされる神武天皇の即位の段に書かれた
 「辛酉年の春正月の庚辰の朔に天皇橿原宮において帝位に即く」
を新暦の日付に置き換えると紀元前 660年 2月11日となると云うところからきたものです(計算自体は明治時代に「紀元節」の日付決定時に為されています)。ですが、この日本書紀に書かれた日付については、歴史的事実とはとても思えないことから、そんないい加減な日付を「建国記念の日」の日付としてよいのかという問題もありました。

 確かに日本書紀の記述は神話的というか、作られた歴史とでも云うべきものかで歴史的事実というには無理がありますから、「事実」を問題とする方にとっては、そんな日付は認められないと考えるのも判らないではありません。しかし、考えてみれば日本のように長い年月をかけ、自然発生的に生まれた国の建国の日がはっきりしていると考える方が無理な話。神話的であるのは致し方無いことです。そしてその建国神話が国民の多くに認知されているものであるならば、その神話が必ずしも歴史的事実である必要はないという至極常識的な考え(私はそう思う)によって、旧来の紀元節と同じ日付に落ち着いたようです。そのため、この日は建国の日ではなくて「建国記念の日」となったのでした。

「建国記念の日」はいつ? 神武天皇即位の日について 
 「建国記念の日」やその前身の「紀元節」の日付が日本書紀の神武天皇即位について書かれた「辛酉年の春正月の庚辰の朔」に由来することは既に書いたとおりですが、ではこの日本書紀に書かれたこの日付はどこから来たのでしょう。
 「辛酉年の春正月の庚辰の朔」を字義通り解釈して暦法(日本書紀には編纂当時に使われた儀鳳暦が使われたと考えられます。但し過去の日付に関しては朔の計算は平朔によっただろうと言われています)を当てはめればこの即位の年は紀元前660年ということになりますが、流石にこれには無理があって、日本書紀編纂時に考え出された日付だと考えられます。では誰が、どんな理由でこの年と日付を考えたのか? こうしたことを考える時には、その当時の人たちが何を信じ、どんな考えを持っていたかを考える必要があります。古代の人のものの考え方をなぞって、神武天皇の即位が紀元前660年の2月11日でなければならなかった理由を考えてみましょう。

その前に、ちょっと点検 
 先ずちょっと点検。紀元前660年という年については、日本書紀に登場する歴代天皇の在位期間等を順に遡って得られた年だそうです。この「丹念に遡る」仕事は私には荷が重いので、先人達の努力の成果を素直に信じることにして、私はこの年が「辛酉年」であり、またその年の「春正月の朔」が本当に「庚辰の日」になっているかを確かめてみます。

 紀元前660年が本当に辛酉年か否かと言うことは簡単に判ります。「辛酉」は六十干支の一つですから、辛酉年は60年毎に現れます。ここ最近で辛酉年というと1981年がこれにあたりますのでこれを起点として考えると
 1981 + 660 - 1 = 2640 (年)( = 60 × 44) 
となります。途中の「-1」は紀元0年という年が存在しないので紀元後と紀元前の年数を加える場合には必要となる補正です。得られた2640年は60年のちょうど44倍ですから、1981年が辛酉の年なら、紀元前660年も同じく辛酉年となりますので、年の干支の問題はクリア。

 続いて、この年の正月朔の日が「庚辰」になるか。紀元前661年末から紀元前660年の初めの部分で、新月となる日のユリウス通日(年月日に区切らず、日数だけを積算して表したもの)を求めます。
関係する箇所を抜き出すと
1480348.5(11月・冬至を含む)
1480377.5(12月)
1480406.5(正月)
1480436.5( 2月・春分を含む)
()内は二十四節気と組み合わせて考えた暦月。儀鳳暦では冬至を含む月を11月とするので上記のような並びになります。この結果からすると「春正月の庚辰の朔」の日のユリウス通日は1480406.5日となります。

 では、最近の「庚辰の日」はいつかと調べると2022年1月27日が「庚辰」でしたのでそしてこの日のユリウス通日を求めると2459606.5日となりました。差し引くと
 2459606.5 - 1480406.5 = 979200(日)(=60 × 16320) 
となり、差の日数がちょうど60日の倍数でしたので、当然日の干支は同じとなりますから日の干支の問題もクリア。
 更にユリウス通日の1480406.5日をグレゴリオ暦の計算方法で年月日に換算すると
 紀元前 660年2月11日 
となりました。
 上記のとおり、日本書紀の「辛酉年の春正月の庚辰の朔」の記述に間違いがないことと、それが紀元前660年2月11日にあたると言うことが無事確認出来ました。おつかれさまでした。
BC660.2.11点検結果
辛酉の年と讖緯説(しんいせつ) 
 神武天皇が即位したとされる年は「辛酉年」となっています。「辛酉(しんゆう・かのとのとり)」とは年を六十干支で表したものの一つですが、この年は古代中国で生まれた讖緯説(しんいせつ)という一種の占いによれば、革命が起こる年と考えられていました。
 日本書紀の編纂を行った時代は中国から様々な技術、知識が日本に流入して来た時代でもありますが、その流入した知識の中の一つとして讖緯説も入っていたと予想されます。
 日本書紀を編纂した人々は、日本は天孫の血筋である天皇家によって統治される国であると云う歴史観を作りたかった訳ですから、初代天皇である神武天皇が、
 何でもない普通の年に即位した 
とはしたくなかった。やはり、そこには何か「特別な意味づけ」が欲しいと考えたのでしょう。その特別な意味づけとして、この讖緯説の革命の年となる「辛酉の年」が選ばれたわけです。はじめて天皇が即位したということは、まさに大きな革命だというわけです。

なぜ紀元前 660年の辛酉の年? 
 さてさて、辛酉の年が革命の年で、その革命の年に神武天皇が即位したことにしたのは分かりましたが、ではなぜ紀元前 660年が選ばれたのでしょうか。
 辛酉は六十干支の一つですから60年ごとに一度は有ります。何もそんなに昔まで遡らなくともよさそうですが、それだけ遡った理由と考えられるものも実は讖緯説にありました。讖緯説によれば六十干支が21回で「蔀(ぶ)」という更に大きな周期を作っているという考えがあります。この一蔀の長さは、
 60年 × 21 = 1260年 
つまり、同じ「辛酉年」であっても、1260年毎に巡ってくる年は、他とは比べられないくらいの「大々革命」が起こるべき年なのです。
 実際の日本の大変革の年を考えるとすると紀元前 660年は古すぎますので、日本書紀を編纂した人達が本当に何か大きな変革が起こったと考えた年はこの年の1260年後だったのではないでしょうか。紀元前 660年の神武天皇即位の年というのは、日本書紀の編纂者達が考えた「本当の革命の年」を讖緯説で権威付けるために選ばれた可能性が有ります。
神武天皇即位と讖緯説
 では、紀元前 660年の1260年後の辛酉の年はいつかというと、推古天皇の 9年(西暦 601年)となります。日本書紀の完成は養老 4年(西暦 720年)ですので、その 120年近く前がその年となります。ちょっと古すぎる気もしますが、日本で初めての史書を作るまでには、それくらいの資料の蓄積、準備が必要だったと考えれば、有り得ない年数ではありません。

推古 9年(西暦 601年)辛酉の年は誰の年? 
聖徳太子 推古 9年当時、そうした新しい国造りの中心となった人は誰だろうと考えると、それらしい人が一人います。聖徳太子です。
 日本書紀が考える天皇中心の日本という国の枠組み作りは聖徳太子から始まり、その起点となる年は推古 9年だったという考えがあったのではないでしょうか。日本書紀が聖徳太子を神懸かり的な力を持った存在として描いているのも、そうした特別な人物であったことを強調したかったからかも知れません。
 ちなみに推古 9年は聖徳太子が後に上宮王家の中心地となる斑鳩宮の造営を始めた年です。暦の知識も豊富であったと考えられる聖徳太子であれば、辛酉の年の意味も知っていたでしょうから、その革命の年に新しい宮を作り、そこから新しい日本を作るという革命を始めようとしたのかもしれません。
法隆寺 上宮王家が滅んでしまったことで聖徳太子の夢は潰えてしまいましたが、その考えを理解していた日本書紀の編纂者達は、聖徳太子の「革命の年」の1260年前に伝説の初代天皇を即位させたのかも。
 その伝説上の神武天皇の即位日が、現在の「建国記念の日」の日付の元になっていると考えると、建国記念の日は遙か昔の聖徳太子の夢の跡なのかもしれませんね(多分に私の憶測が入ってしまっていますけれど)。

むすび 
 「建国記念の日」の日付
 という、何の変哲もない題名から、なんだかとんでもない処まで来てしまった気もしますが、日本は神話の中にまで踏み込まないと建国した日が判らないほど古い歴史を持った国であると云う誇らしい事実を噛みしめながら
 「建国をしのび、国を愛する心を養う」
建国記念の日を過ごしてみるのもよいのではないでしょうか。

余 談
 いつか、まとめて書いておきたいなと思いましたが、込み入った話で、まとめるのが難しい話(私にまとめる力がないだけか)でもあるので、ずっと先送りしておりましたけれど、とりあえずチャレンジと言うことで書いてみました。
 ひとまず書いてはみたものの、いろいろ手を入れなければいけない箇所があるのも自覚しておりますので、見直してはぼちぼちと直して行きたいと思っています(と、言い訳でした)。
※記事更新履歴
初出 2022/02/11
初出 2023/01/29 表追加、画像追加。
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