現在使われている「西暦」について(投稿者:カズさん)
2000/10/19 の掲示板への書き込みから始まった一連のやり取りに、メインの回答者「カズさん」が「西暦」についてという投稿をしてくださいました。
質問者「南掌さん」、回答者「カズさん」の了承を得ましたので、掲示板のやり取りの抜粋と投稿文章を掲載いたします。南掌さん、カズさん、有り難うございました。

こよみのページ作者


掲示板抜粋(一部修正しております)
南掌さん
突然ですが、1月1日という日が決められた基準ってなんだったのかご存じでしょうか?気になって気になって仕方がありません。
カズさん
南掌さんの質問ですが、私の記憶では次のとおりです。
ユリウス・カエサルがユリウス暦を定めたとき、それ以前のローマ暦に習って春分を3月25日になるように定めました。12月は当初30日の月でしたので、冬至は25日となり、これがクリスマスのもととなりました。
当時のローマ暦では1年の初めが3月1日となっていましたが、後に1月に改められたようです。現在の冬至は12月22日ですが、この差はグレゴリオ暦を導入した時点で、ユリウス暦設定時ではなく4世紀のキリスト教公会議の時点にあわせて修正したためです。
南掌さん
南掌です。
カズさん、迅速なお答えありがとうございます。さらに疑問が湧いてしまいました。
ローマ暦では、何故に春分を3月25日にしてたんでしょうね。春分を1月1日にするとかならわかるんですが。
それと、「1年の初めが3月1日となってい」たというのは、一年の最初の日が「3月1日」と呼ばれていた、という意味でしょうか?
また、「後に1月に改められた」とすると、現在では1月25日付近が春分の日になっていそうなものですが、わたしの理解が間違っていますか?
カズさん
南掌さん、私の不確かな説明で逆に質問を増やしてしまい、申し訳ありません。
古代ローマ暦では1月はヤヌス神の月、3月はマルスの月というように1月から6月までは神の名前がついており、7月から12月までは「5月」〜「10月」と数字で呼ばれていました・・・以下省略・・・

と以上のようなやり取りが数日続き、折角なのでまとめて掲載させてくださいとお願いしたところ、予想以上のものをカズさんが「投稿」してくださいました。
これ以降は、カズさんからの投稿をそのまま掲載させていただきました(レイアウトのための小変更のみ加えさせていただきました)。投稿してくださったカズさん、きっかけを与えてくださった南掌さん、ありがとうございました。

カズさんからの投稿全文


 2000年10月21日、今年の日本シリーズが開幕、王ダイエーが先勝した…。
 別にプロ野球について書こうと考えているわけではありません。現在の私たちは「2000年10月21日」といえば全世界共通にある特定の日付を指しているものと考えていますが、本当にそうなのでしょうか。「西暦」は暦の世界のグローバル・スタンダードと言ってよい状況にはありますが、あくまでも西ヨーロッパ世界の暦であることを忘れるべきではないと思います。

 2000年の9月29日はユダヤ暦の新年にあたり、全世界のユダヤ人たちは新年を祝ったことでしょう。また毎年華僑の人たちを中心にアジア諸国では旧正月を盛大にお祝いします。イスラムの断食月も西暦では一定の日に定まっていないようです。

 そもそも暦はなぜ作られるようになったのでしょうか。ひとつには農耕文明の発達に伴い農作業の必要性が理由に挙げられるでしょう。それとともに祭りのスケジュールを管理するという宗教的な側面も忘れる事は出来ません。現在使用されている「西暦」は「グレゴリオ暦」ですが、これは1582年にローマ教皇グレゴリオ13世
が公布した改暦に基づく、ローマ・カトリックの暦です。そしてそのルーツは古代ローマ帝国の暦にさかのぼります。

 話はユリウス・カエサルがエジプトとクレオパトラを征服した紀元前47年にさかのぼります。カエサルはもちろんローマ共和国の将軍でしたが、同時にローマ共和国の宗教的指導者である終身神祇官でもありました。古代ローマ社会は多神教の世界であり、さまざまな神々の祭りが定期的に行われていました。
 当時のローマの暦は月の満ち欠けを元に暦を定め、かつ閏月を挿入することで太陽暦との誤差を調整する太陰太陽暦が用いられていました。1朔望月は約29.53日ですので12ヶ月では354日ほどとなり365.24219879日(注意:投稿文では「365.2419879日」となっておりましたが、明らかな間違い(タイプミス?)ですので、修正しました)の太陽暦と比べて11日程度短くなります。そこで一般的には19年に7回閏月を置くメトン法がもちいられるケースが多いのですが、古代ローマでは閏月を挿入するルールが厳守されなかったために混乱を起こしていました。たとえば借金の期限を延ばすために閏月を挿入する、政敵を早く役職から辞任させるため閏月を挿入させない、などです。このため既に本来の暦とは約3ヶ月の差が生じていました。

1月Januarius31日
2月Februarius29日
3月Martius31日
4月Aprilis30日
5月Maius31日
6月Junius30日
7月Quintilis(Julius)31日
8月Sextilis30日
9月September31日
10月October30日
11月November31日
12月December30日
 それに比べて、ナイル川の大洪水を予測するためのエジプトの暦は1年を365日とする太陽暦でしたので、閏月の挿入問題とは無縁でした。エジプト征服後カエサルはローマの暦を太陽暦に切り替える大改暦を実施することを決意しました。カエサルはまず未消化となっていた閏月を3ヶ月一度に挿入させました。このため
紀元前46年は1年が445日にもなる異常事態となり、「混乱の年」というニックネームがつけられました。つづいて各月の日付を右表のように定めました。

 2月が29日となったのは、当時一般的に3月1日を新年とする風習があったため、端数を年末である2月に調整したためです。本来公式には新年は紀元前153年以降1月1日に変更されていましたが、2月23日にテルミニウムという祭礼が行われ、この祭りが年末の風物詩となっていたせいもあって、庶民レベルでは3月1日を新年として祝う風習があったようです。その後も3月に新年を祝う風習は欧州各地で18世紀まで見られたようです。ちょうど中国などの旧正月みたいですね。3月を一年の初めとしたのは立春を含む月を一年の初めとしたローマ建国以来の「ロムルス暦」にもとづく伝統と考えられます。
 3月から1月へ正月の変更が行われた理由についてはわかりませんが、1月はヤヌス神に捧げられた月であり、ヤヌス神はローマの領土を守護する神であったため、新年にふさわしいと考えられたのかもしれません。9月のことをSeptemberといいますが、これはラテン語で「7月」の意味であり、3月1日が新年であった名残で
す。
 現在の「1月1日」を「1月1日」に確定した理由としては「3月25日を春分とする慣わしがあったのでそれに合わせた」という説があります。次に7月の月名を「5月」から自分の名前「ユリウス」に改めました。誕生日だったから、という理由ですが、自分の名前を月の名前にしてしまうあつかましさは驚かされます。(カエサルの死後ローマ帝国の初代皇帝となるオクタヴィアヌス・アウグストゥスは8月の月名を自分の戦勝を祝って「アウグストゥス」に変更した上、月の日数を31日に変更し、その分2月を28日として9月以降の日数を変更する、という改暦をしました。カエサルの暦のほうがすっきりしていて良かったと思うのに無粋なことをしてくれたものです。ちなみにネロ帝なども自分の名前を月名に残そうとしましたが結局失敗しました。よかった。)
 上記の日数合計は365日ですが、これでは地球の公転周期は365.2421987日ですので、ほぼ4年で1日遅れることになります。それを修正するために1年に1日閏年を設けることとしました。ちなみに細かく言えば2月23日のテルミニウムを避けて、2月24日の次に「閏2月24日」を挿入しました。現在は2月の月末
に2月29日を加えているのはご存知のとおりです。

 以上がカエサルの改暦の概要であり、この暦をカエサルの名前を冠して「ユリウス暦」といいます。このユリウス暦では1年は365.25日となり実際より長くなりますので、約128年で1日遅れることになります。このことは当初からカエサルも認識していたようですが、実生活上にはほとんど影響がないことからこれで十分
と考えたようです。今考えても2000年前の計算とは感心します。現代のコンピュータ・プログラマーたちも4年に1度の閏年しか想定しなかったため「2000年問題」などという問題が起きたのですから、悪い言葉ですが暦に対する私たちの発想は余り進歩していなかったようです。

 このカエサルが見過ごした128年に1日の誤差が積もり積もって大問題となるときがきます。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝はキリスト教を国教としました。さらにキリスト教会の教義統一を図るため紀元325年にニケア公会議を主催します。その会議でキリストの復活を祝うイースター祭の日付を決定するのに使用
する春分の日を3月21日に固定してしまいました。カエサルが改暦した時点では春分は3月25日でしたから、この400年ほどで4日ほどずれたことになります。

 キリストはユダヤ暦の1月(ニサンの月)13日金曜日に磔刑となり、15日の日曜日の朝に復活したとされており、これを祝うのがイースター祭です。ところがユダヤ暦は太陰太陽暦であるため太陽暦であるユリウス暦とは日付が異なっており、既にユリウス暦になじんでいたローマ帝国国民としていまさら太陰暦に戻りたくな
かったこと、またユダヤ教徒とキリスト教徒とのトラブルやユダヤ人迫害も始まっておりイースター祭の日取りを決定するのにユダヤ暦を用いたくなかったこと、などから「春分のあとの満月の次の日曜日をイースターとする」と決定しました。
 この決定から月日は移り、中世のキリスト教絶対の時代が続きます。ヨーロッパ社会は引き続きユリウス暦を使用しつづけていましたので、約128年毎に暦は実際の日付から遅れていきます。カエサルの時代とは13日ほどずれていたでしょうか。
 ところがキリスト教会では春分は「3月21日」と定められたまま変更されませんでした。このことに修道僧などキリスト教会の内部から非難が出てきます。すなわち、「間違った暦を用いてイースター祭の日取りを決めるという神への冒涜を犯してしまったのではないか」。ルネッサンスによる天文学上の真理追及ではなく、き
わめて宗教的な理由です。

 これを受けて何度か改暦の話が持ち上がりますが、やはり宗教的な理由で実現しませんでした。最終的に1582年にグレゴリオ13世が改暦をすることによりようやくこの問題に決着をつけることが出来ました。この改暦で行われたのは次の2点です。まずニケア公会議時点からこれまでのズレとして10日間を暦から除く、すなわち1582年の10月4日の翌日を15日とする。次に今後の対策として西暦の年数が100で割り切れかつ400で割り切れない年は閏年としない。これが現在の「グレゴリオ暦」です。
 このグレゴリオ暦もローマ教皇が決定した暦であったためカトリック以外のプロテスタントやギリシャ正教・ロシア正教等を信ずる諸国ではなかなか普及しませんでした。イギリスが採用したのが1752年、ロシアなど正教国は19世紀になってからなど、ずいぶんばらつきがあります。ちなみにわが国は明治6年(1873年)にユリウス暦を取り入れ、明治33年(1900年)からグレゴリオ暦を採用しました。もっともユリウス暦といっても400年間に3回閏年を除くグレゴリオ暦のルールを知らずに法律を作ったという「明治版の2000年問題」ともいえる事情に過ぎませんが。

 ではこの「2000年」という年数はいつから2000年を意味しているのでしょうか。一般的に暦ではある出来事が起きた年を紀元としてそれからの年数を年代表記に用いるのが一般的です。たとえばわが国の「皇紀」では神武天皇が大和橿原宮で即位された年(紀元前660年)をもって元年としています(戦前「紀元2600年記念式典」が挙行され、高名な作曲家のリヒャルト・シュトラウスが奉祝曲を作曲しています)し、イスラム暦ではマホメットが神からの啓示を受けてメッカからメジナに移った年(紀元622年)を紀元としています(ヘジラ紀元)。ユダヤ暦ではトーラー(キリスト教の旧約聖書)を基に天地創造以来の日数を足しこんで(つまり天地創造に7日、その後アダムとイブは何歳まで生きて、…という数字を全部足しこんで)年数を決定しています。ちなみにユダヤ暦の紀元は西暦の紀元前3761年です。

 もちろん特殊な例もあります。中国文化圏では干支を用いて60年サイクルの年号と為政者が決定する元号(元禄、享保など)を併用してきましたし、古代マヤ文明では西暦紀元前3114年8月11日を基点として日数を単純に足しこみました(年数ではないので閏年も何も関係ありませんね。天文学で使われる「ユリウス通日」も同様の発想です。マヤの暦について興味がありましたら別の機会に文章をしたためてみましょう)。
 古代ローマではローマ建国の日を紀元とする暦を用いており、カエサルも改暦はしても紀元は変えませんでしたが、3世紀のローマ皇帝ディオクレティアヌス帝は自己の治世元年である西暦284年を紀元とするように定めました。その後のヨーロッパ社会ではこの紀元が一般的に広く用いられるようになりました。

 ここでも修道僧が出てきますが、異教徒(ローマ皇帝でキリスト教信者になったのはコンスタンティヌス大帝がはじめてです)の決めた紀元を用いるのはおかしい、という異論が出ました。532年にローマの修道僧だったエクシグウス・ディオニシウスは、聖書を基にキリスト誕生の日付を推定し、その年を紀元1年と決定しました。当初は知識階層から反発があったようですが、結果的にひろく受け入れられて現在にいたっています。このため「紀元2000年」というときにA.D.2000と書きますが、このA.D.はAnno Dominiつまり「主(である神キリスト)による年」、という意味です。紀元前のB.C.がBefore Christつまり「キリスト前」であることは広く知られています。最近の研究では実際にはキリストの誕生は紀元1年の12月25日ではなく、紀元前4年〜6年ごろの10月ごろであったといわれており、西暦の紀元設定も実際には根拠のあるものではありません。

 私個人の意見としていえば、古代史を考えるときに紀元前○○年、紀元後××年というよりも西暦2000年を10,000年とするような新しい暦が出来れば、全歴史時代をカバーできかつキリスト教徒以外の人たちも使いやすくなる、ということでよいのではないかと思うのですが、実際に実現させるのはやはり無理なんでしょうね。
参考書籍
永田 久   暦と占いの科学 新潮社
永田 久   年中行事を「科学」する 日本経済新聞社
デイビッド・E・ダンカン 暦を作った人々 河出書房新社
日本史小事典「暦」
こよみ読み解き辞典
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