蕗のとう
(2001.3.31[土])
今日は寒の戻りで最高気温9度とか。ほとんどの桜の花はつぼみのままだが、気が早く咲いてしまった花は今頃後悔しているかもしれない。 とは言え、やはり春である。柔らかな緑があふれている。 夏の日差しを浴びる濃緑の葉ではなく、あくまでも柔らかな緑。若草色とはよく言ったものだ。 春の緑と言えば、その代表の一つとして蕗のとうがある。 雪国に生まれたので、子供の頃は融けかけた雪の間から小さな芽を出している蕗のとうをよく見たものだ。摘んで帰ると、母が大げさに喜んでほめてくれた。子供を喜ばせようと大げさにしていたのかもしれないが、まんざら演技だけでは無かっただろうと親になった今はわかる気がする。 今回の写真は、もう「食用」にするには遅すぎる蕗のとう。人間の魔手(?)を逃れ無事に花を咲かせている。蕗のとうには雄花と雌花があるそうだが、これはどっちの花かな?
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暖かくなりました
(2001.3.29[木])
暖かくなりましたね。 今日は、昨日より一枚だけ薄着になりました。
通勤途中の桜の花も、気の早いものはぼちぼち咲きだし、花見はいつ頃かななんて考える陽気になってきました。 家の「日陰者のサイネリア&エリカ」もようやく「陽の目を見る」ことが出来るようになりました。残念ながら、花期は過ぎてしまったようですがね。 これからしばらくは、暑からず寒からず、散歩の楽しい季節です(散歩が趣味になってるのかな?)。
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ラケットが折れました
(2001.3.27[火])
日曜日にラケットが折れた。 ここのところラケットが折れることが無かった(最後は12月だった)のだが。今回折れたラケットは、すでに廃版になっているラケットなのでもう手に入らないだろうな。現時点での一番のお気に入りラケットだったのに(それも、金曜日にガット張ったばかりだったのに)。 また、試合もたて込みはじめる頃なのだが、現在使えるラケットが4本にまで減ってしまったので、ぼちぼち新しいのを購入しないといけないな。でも最近、使いやすいラケットが無くてな。 また、使いやすいラケットを求めて、新しいのを買って試してみるか(でも、「はずれ」だったりすると、懐へのダメージが大きいから・・・)。
どっかに、Carbonex-22 落ちてないかな?
本日は、愚痴りのかわうそでした。
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なずな・その2
(2001.3.25[日])
なずな(その2)である。 昨日は土曜日。知人のHPのデザインを考えていたが、少々いき詰まったので気分転換にお出かけ。散髪へ。 ものぐさなので、髪の毛が「邪魔」になるくらいまで伸ばし、この段階で短めに切り、再び邪魔になるまで伸ばすと言うパターンを繰り返す。今回もぼちぼち邪魔(試合中に髪の毛が目に入る・・・)になってきたので、切りに出かけた。 暖かな日であったので、久々に自転車でのお出かけ。散髪はあっと言う間に終了(体感時間?)。散髪中の私の記憶はたぶん3分程度しかない。どうして散髪中はあんなに眠くなるのかな?。
散髪が済み、涼しくなったところで、折角自転車で出かけてきたのでそのまましばらくサイクリング。近所の川に沿って上流方向に向かう。この川に沿った道はお気に入りで、時々やってくる。季節季節で違った楽しみが見つかる。 今の時期は、満開の梅の花と田起こしの風景。 田圃というのは勿論人為の産物であるが、自然の風景といえるほど日本の風土にとけ込んだ存在である。田起こしの様子を見ていると、今年も1年が始まるんだという気がしてくる。 さて最初の写真であるは、その田起こしがされる前の田圃で見つけたもの。前回はなずなの写真を撮っていなかったので、「今回こそ」と思って写してきたものである。 この田圃は一面のなずな畑になっていた。ほんとに作ってるんじゃないかと思うほどたくさんのなずなの群であった。 よく見れば一つ一つがきれいな花であるが、群の美しさはまた格別。個々が集団に埋没してしまうのではなく、集団を支えるために埋没する。なずなの群の美しさの本領かな?
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なずな
(2001.3.23[金])
なずな、漢字で書けば「薺」(自分じゃかけない字だな)。
先日、田圃道を歩いているとれんげの花の一群の脇になずなが咲いていた。 れんげを先に書いたように、やはり目がいくのはれんげ。それに比べるとなずなは地味である。花自体も小さく、近づいてよく見ないと形がわからない。 近づいてよく見れば、小さいながらも4枚の花弁が美しく並んだ清楚な花である。みているうちに最初に目を留めたれんげを忘れてなずなばかりみていた。
今回は、写真がなかったのでオープニングで使っている小さなカットを流用。なずなのことを考えながら自分のHPを開いたら、オープニングの季節の花に映し出されたのがちょうどこの写真。これって共時性ってやつかな・・・。 今週の休みは久しぶりに近所を歩き回ってみるかな。晴れるといいな。
追記. なずなの別名「ペンペン草」。花のあとに生る実の形が三味線のばちににているからとか。同じく「三味線草」ともいうが、ペンペン草って言うのは「××も生えない」と言う使われ方をするせいか、あんまり良いイメージがしないですね。ちょっとかわいそうな名前?
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木守り
(2001.3.19[月])
飛び石連休の飛び石の間を埋め立てて、ただの「連休」にして本宅でのんびりしているかわうそです。 本宅は本州の南端、紀伊半島の先っぽに位置する那智勝浦。「那智の滝の有るところ」というとわかりやすいかもしれない。 最初にこの地にやってきたとき、東北出身の私には「蜜柑がいっぱいある!」ということが驚きだった。今では大分なれたけれども、いつの季節も蜜柑の実が生った木が必ずあるというのは不思議である。 現在住んでいる舞鶴とは同じ近畿とはいえかなり異なった気候である。桜の開花時期も1月近く違う。舞鶴ではつい先日大雪が降ったというのに、勝浦周辺では彼方こちらで桜の花(山桜)が山の緑の中に鮮やかな花の色を落としている。まさに春色である。 既にこの地では、冬は過去の季節である。民家の庭に植えられた背の高い夏蜜柑の木、その天辺に残った2つ木守りも、春の訪れとともに無事その役目を終え、次の季節の世代にバトンを移したようである。
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さて、帰るか
(2001.3.16[金])
朝起きると、快晴。 空が青い。「あお」といっても冬の空の蒼というより水色。空の色も春らしくなってきた。東京の空もきれいだなと思わせる雲一つない空(と思ったら、小さいのが2つあった)。 今日で、花の東京都ともお別れ。鄙の野草でも見ようかと本宅へ(おっと、家族サービスでしたね)。 昨日はなぜか眠くて、普段は夜行性のかわうそが人並みな時間(午前1時頃)就寝。正確には自主的な就寝ではないので「討ち死に」が正しいかもしれない。半ば習慣化しつつある、お風呂での読書も本を湯船に落としそうになってできなかった。春だから眠いわけでは無いのだろうが。
本日は、東京から本宅までの6時間の電車の旅をのんびりと楽しむことにしよう。
追記. 何とも間抜けであった。出勤前にアップしようとしたが、チェックアウト直前のため既に電話が使えなくなっていた。いまからPHSに繋ぐのもめんどくさいので、帰ってから古くなった日記をアップすることにしよう。
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花の東京に・・・
(2001.3.14[水])
今日から(3/14)から再び花の東京へ。 急な出張が入りました。まあ、便利な今の時代なので出張中も メール、HP保守とも可能ですが、資料はそんなに持ち歩けな いからな(ほんもみんなCD-ROM等になってれば・・・)
ということで、次のアクセスは東京からです。
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腹立ちまぎれに書いてます?
(2001.3.12[月])
日曜日の朝は政局や時事問題を取り扱った番組が多い。子供の頃は父親がそんな番組を見ているとつまらなくて、別のチャンネルで放送される子供番組が見たくてならなかったものだが、いい歳になった今、昔の父親と同じような番組にチャンネルを合わせるようになった。 。 今朝の番組は、総理が退陣の意志を表明したとかしないとかで、話題はそれに関連したものばかり。総理本人の意思とは関係なく、周辺の思惑で無理矢理表明させられた「退陣表明」だったのは誰の目にも明らか。「進むときは人に任せ、退くときは自ら決せよ」といった古人たちの眼には、今回のごたごたはどのように映るのだろうか。
それはさておき、番組を見ていて気になる点があった。何人かの政治家が
「信無くば立たず」
と言う言葉を使ったことである。今回の不信任案否決直後の退陣表明が国民を愚弄するものだといった野党側からの発言に対して、一連の行動が国民を欺くような、信義にもとるものではないといった弁明に使われたように思うが、この言葉ってそんな使い方をして良いのかな。
出典はおそらく、論語にある孔子と子貢(孔子の高弟)の問答からだろう。孔子に対して弟子の子貢が国家が国家として成り立つ要件を問うたことに対して、孔子が最も重要な要件として最後に語った言葉が「信無くば立たず」だったと記憶している。 この問答の前段で語られた、国家を他国から守る軍事力(兵)、経済力(食)以上に重要で、国の根幹をなすものとしてこの言葉が語られている。
「食」以上に重要であるということは、要するに「国民間の信義は、ただ生きることより重要である」ということである。論語は元々が為政者を目指す弟子に孔子が語った言葉を集めたものである。そのため「政を為す者」には、一般庶民に比して高い倫理性を求めている。「国民間の信義」がただ生きるより重いと断ずるからには、為政者も当然命より重い信義を要求されているのである。そんなことを考えてゆくと、嘘で塗り固めたような答弁を恥ずかしげも無く語る政治家(為政者)がこの言葉を使うことには憤りさえ感じてします。
わうそ日記にはそぐわない話題かとも思ったが、今回は書かずにはいられなかった。失礼した(お詫びといっては何だが、右のタンポポでも眺めて気分を直していただきたい。)。
追記. 間違ってると恥ずかしいので、もう一度調べました。この言葉は論語・顔淵篇に有ります。まずは一安心。
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春はそこまで
(2001.3.10[土])
「こよみの上では春ですが」とどこかで聞いたような言葉がよぎる今日この頃。三月もこの時期になれば春めいてきてもいいのに、日本全国冬へ逆戻り。 昨日の朝はいきなり30cmを超える積雪で、久々の徒歩出勤。今も街は雪景色である。この雪で桜の開花が何日かは遅れるのかな。 左の写真は先週の日曜日、南紀の本宅へ戻った際の写真。田圃には水がひかれ、蓮華の花も咲いていたのに・・・。
春と言えば、一つ春らしい話題があった。時々メールを送ってくれる姪から志望大学に合格したとの知らせがあった。持病があり人より苦労したことも多かったかと思うが、寒さが厳しい冬の後の桜は見事だとも言う、美しい春となることを祈りたい。
追記. 冬があり、春があり、夏があり、秋があり、人生・歴史を春秋とはよく言ったものである。 まだ、先は長いね。
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「暦と天文の雑学」について
(2001.3.6[火])
3月のはじめに、「桃の節句」について暦と天文の雑学に書くことにして、3月3日の夜にアップした(・・・遅刻だろうな・・・)。 書いてみたら、これは五節句の説明もしないと変だなと思い立ち、五節句の話も書いた。そしたら・・・。何れ五節句の残り4つの節句の話も書くことになりそうである。
暦と天文の雑学(旧こよみのはなし)は、その時々、質問されたことなどからおもしろそうな話題をピックアップして気ままに書いてきたものであるが、今回の記事で29編(うち1編は投稿記事)。意外に増えてきた。 ぼちぼち、話の分類を見直し、再構成してみる必要があるかな?
新しい話題をアップしたあとはしばらくアクセスが増える傾向が有るところを見ると、あんな四方山話でも読んでくれる人はいるらしい。読んでくれる人がいるとなれば、もう少しわかりやすい作りに変えるべきか。悩む私であった。 (サイト内の全文検索システムでも作った方が早いか?) ついでと言っては何だが、「暦と天文の雑学」というタイトルもなんか素っ気なくてつまらない。佳い名前は無いものか。
作者まで、読者各位の御意見を賜りたい(最近こればっかり)。
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メールのことなど
(2001.3.5[月])
さて、週末を太平洋側で過ごしたかわうそであるが、「渋々」仕事場のある日本海側に帰ってくるとそこは雪国だった。 うーむ同じ近畿圏なのにこの気候のさは・・・。まだしばらくは車のタイヤはスタッドレスのままにしておこう。
さて、帰ってきていつものようにメールチェックをしていて、こよみのページ関連で受け取った質問その他のメールが500件ばかりになっているのに気づいた。結構たまったものである。まあほとんどすべてに返事を書いている(場合によってはもらったメールの何倍もの量の・・・)のだから、行き帰りで1000通分のメールか。 もうそろそろ1周年を迎えることでもあるし、この辺で一度詳しく分類整理してみよう。うまく拾い出せばそれだけで結構なFAQ集になりそうである。せっかくだから使わなきゃ損だもの。
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Win98SE 復活
(2001.3.2[金])
メインのPCにWin98SEを再インストールした。 今までもときどき不調になることはあったが、先週ついに使用不可能状態に陥ったので、思い切ってクリーンインストールした。 不調に陥ったのは、いろいろソフトを詰め込んでいたこと、昔から使っていたソフトを引きずってい来ていたことなど、いろいろ原因は思い当たるが「動いているならいじるな」の鉄則に従ってここまで来ていたのだが、この辺が限界だったか。 幸いもう一つの鉄則、「重要なシステムは2つ作っておけ」のおかげで、メインがこけても別のPCでほとんどの作業が出来るからさほど困りはしなかったが、やはり一番使いやすい(机の真ん中においてあるし)ものなので、復旧作業を急いだ。 途中、セットアッププログラムが「SUWIN.EXE の致命的なエラー」のメッセージを発しお亡くなりになること多数。いろいろ試行錯誤したあげく、Win98のCD-ROMから必要なファイルをHDDにコピーして、リアルモードで動くCD-ROMのドライバをはずしてからセットアッププログラムを起動したところうまく動いてくれた。 現時点では、ほとんど空っぽのWin98。これから、必要なソフトを順次インストールして行くことになる。まあ、ゆっくりやろう。
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