人間の臭いについての記憶は、目や耳から得た物事の記憶より強く、時間が経過しても忘れることが無いと言うことを聞いたことが有る。しかし、それほど明確に残る記憶でありながら、これを人に伝えようとすると、目や耳で得た記憶を伝えるより難しい。臭いの記憶については「曰く言い難い」ものが多い。
説明は難しいのだが、それでも鼻に感じるそれは、好ましい「香り」とそうでない「臭い」とにはっきりと区別が出来るから不思議なものである。
木曜日は午前の来客との対応が長引き昼休みに大分食い込んでしまった。時間も中途半端になったのでいつものランニングはサボることにした。そのおかげで、昼休みには必ず出現なさる保険勧誘員の来訪を受る結果となってしまった。
勧誘員の方々はあまり興味のある話をしてくれるわけではないので、いつもはおざなりに話を聞いて、机に置かれたパンフレットを、後でそっとゴミ箱に捨てて終わりであるが、昨日に限ってはパンフレットの他に、もう一枚の紙を差し出された。
「署名をお願いします」
「何の?」と訊くと、所得税からの保険料控除制度廃止への反対署名だそうだ。「何の?」と尋ねると、内容の書かれたリーフレットを渡してくれた。内容をざっと読むと、廃止反対のみならず、控除額のアップを要請するものであった。有る程度理解できたところでリーフレットと署名用紙を返した。署名はしていない。
「控除が廃止されてもいいんですか? 損しちゃいますよ」
と用紙を返した相手が言う。
署名しない理由は2つ。
一つは、元来、署名運動の類が嫌いだと言うのがある。大体この手の署名運動で何かが変わるとは思っていない。またこんな署名くらいで「自分が何かした」と勘違いしてしまわないため。
二つ目は、署名を求めるものとその内容の関係。
保険料控除の廃止(と控除額アップの要請)の是非はともかく、その内容からして、明らかに利害関係のある保険会社が営業の一環でそのような署名を集めていると言うことに、強い嫌悪を覚えた。
人のためになる事柄であれ、その結果が勧めるもの自体の利益に結びつくようなばあい、一個人が行う場合ですら、気が引けるものである。その法案に問題があると思うなら、企業には企業の戦い方があるはずだ。それは「契約者の署名を集める」ことではないと思う。こんな署名集めを企画した担当者は、わずかばかりの矜持すら持ち合わせていないらしい。まるで悪臭を嗅いでしまった後のような、胸の悪さを感じた。
金曜日は何事もなく、天気も良い。無事、秋空の下へランニングに出ることが出来た。空気は、ひんやりとして走る身には心地よい。
コースの半ばには芳気を纏った金木犀の植え込みがある。花の時期以外には、その木と気づかない金木犀、派手さは無いがこの香りさえあれば、忘れられることは無いだろう。
走りすぎる一瞬、その芳香が秋の記憶として刻まれた。
言葉で説明することの難しい臭いの記憶、説明は難しくとも記憶は確かに刻まれる。これは嫌な臭い、これは好ましい香りと。
臭いの記憶と同じく、言葉では説明が難しいことの一つに、人の印象がある。殆ど同じに見える行動ですら、まるで臭気と芳香と言うほどの差を感じることがある。どう違うのかと問われるととまどってしまうのだが、その印象の違いは記憶の深い部分に刻み込まれる。
臭いと香りの違いが気になったこの2日だった。
ある日のメールから
(2003.10.7[火])
--------------------------------------------------------- Subject: 訃報&吉報です。
昨日、金魚がお亡くなりになりました。そして今日、子ガメ が二匹産まれているのが見つかりました。まだいるかもね。 ケロリンは食べすぎなのか 今日はデブです。 知君は出勤しました。お父さんの病院の結果教えてね。
――― このメールにはファイルが添付されています ――― --------------------------------------------------------- |
ある日のメールである。差出人は妻。一応「今度日記に使って良いかな?」と言っておいたので、きっと使っても文句は出ないと思う。
まあ、コンピュータなどというものに近寄ろうとしない妻なので、かわうそ日記の内容は読んだことがないから、文句の出ようも無いとは思うが。
それはさておき、このメールには我が家の主要なメンバーが登場している。
「訃報」となった金魚は、多分玄関におかれていた「バケツ」で飼われて(?)いたものと思われる。金魚すくいですくわれた・・・正確には、すくえなくておまけでもらった・・・金魚である。私は殆ど面識が無い金魚君で、どのようなお姿かも思い出せないので、とりあえず「ご愁傷様」とだけ。
子ガメは、後ほど書くとしてケロリンはこの日記にも何度か登場したことのある雨蛙。我が家の近辺を住みかとしているらしく、春から秋までの間はよく見かける。
どうした訳か我妻はこのケロリンにいたくご執心で、毎日朝の日課は、「今日のケロリン」の居所を探すこと。一日二日見かけないだけで不機嫌になる。私については1月も見かけなくても結構陽気なのにと思うと、夫としてはやや複雑な気持ちである。
(ちなみに、「ケロリン日記」が書けるほど、隔日ほどの頻度で写真付き「今日のケロリン」メールが届く)
最後に書かれている「知君」と「お父さん」は長男と私のこと。一応人間である。
さて、右の写真に写ったものが、「また後ほど」と書いた子ガメである。2匹の小さなカメとかなり大きくなったカメ1匹。大きな方は昨年の今頃生まれたお兄さん(お姉さんかもしれない)ガメ。親ガメではない。写真中央に比較のため、5円玉を入れて写しているので大きさの程が判ると思う。。
どうしたわけか、近所で昨年拾われてきたカメと、今年拾われてきた別のカメがいずれも拾われてしばらく後に出産。その卵を砂に埋めておいたら「孵った」のである。
今年のカメは13個の卵を産んだが、現時点で発見された子ガメは2匹。昨年は10個の卵から2匹が孵った(1匹は写真の様に育ったが、もう一匹は甲羅も残さず行方しれずに)。今年はまだ孵る可能性もあるので、最終的には何匹になるやら。
普段は、大きな桶に砂を入れ、水たまりや草むらを作ったワイルドな環境で育てているが、昨年の子ガメ行方不明事件もあったので、もう少し大きくなるまで部屋の中で育てられることに。
生まれたばかりのカメは、兄ちゃんガメに蹴飛ばされながらも、水たまりで泳ぎ、カメのエサをかじっているらしい。来月、私との初対面時にはきっと500円玉サイズくらいには育っていることだろう。楽しみである。
追記.
今回のメールに登場しなかったのは、書き手である妻と、次男、それと最近寝てばかりいる2歳のハムスター1匹。またいずれ登場する機会もあると思う。
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彼岸花雑記
(2003.10.1[水])
毎年、今時分になると必ず話題となる花に彼岸花がある。名前の通り秋彼岸の時期に田の畦を緋色に埋め尽くす花である。
曼珠沙華とも言うが、子供の頃から慣れ親しんだ「彼岸花」の方がしっくり来る。曼珠沙華というとなぜだかよそよそしい気持ちなってしまうから不思議なものである。
舂(うすづ)ける彼岸秋陽に狐ばな
赤々そまれりここはどこのみち 木下利玄
ここで歌われた「狐ばな」は、作者木下利玄の故郷での彼岸花の呼び名だそうだ。
「舂(うすづ)く」は陽がまさに山陰に沈もうとする様を表す言葉で有るとか。きっと秋の夕日に染まり赤く燃え立つ花は、作者にとって、彼岸花でも曼珠沙華でもなく「狐ばな」でなければならなかったのだろう。
先日、名前に「緋」の文字を持つ方からメールを頂いた。ご本人も名前の一文字となったその色がお好きだとか。そしてまた緋色に燃える彼岸花にも惹かれるとも。そういえば「緋色」は「火色」から来たとも言われる。まさに燃え立つ色なのかもしれない。
先週末に帰った本宅周辺にも彼岸花が咲いていたが、既に少々盛りを過ぎたと見えて田の畦を埋め尽くすといった風景にはお目にかかれなかった。残念でも有るが、いつもいつも思い通りの風景が見えるとしたらそれもまたつまらない。
また、いずれあたりを埋め尽くして咲く彼岸花の風景を見つけられるまで、楽しみをとっておくことにしよう。
さて、燃え立つ緋色の彼岸花の話をしたところなので本日は彼岸花の写真を載せてみる。ただし、写っているのは「白い彼岸花」。息子の運動会に向かう途中に見かけた花。畑と道の境目に一群咲いていた彼岸花である。育てていると言う雰囲気では無い。いつか白い花を見かけた主が畑の隅に移し、あとは毎年勝手に咲くに任せていると言ったところだろう。
後数年は、秋になれば息子の運動会のためにこの道を通ことになる。来年もまたこの花を眺めることになるだろう。そして多分来年も、この時期になれば、思い出したように彼岸花の話をしていることだろう。多分、きっと。
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