あんまり、ビルが高いので
(2004.1.28[水])
あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろう
とその昔の歌(注意:私が子供の頃、既に懐メロ)に登場した月。 この歌では煙突の煙が煙くたって、それでも主役は月で、煙突ではなかった。
そして時代は変わって高層ビルの林立する現在。 空を見上げてまず目に飛び込んで来るのは、ビルの明かり。まだ皆さん仕事中。 夜空に煌々と輝くものと言えば、昔は月と相場が決まっていたが、今では煌々と輝くオフィスビルの明かりにお月様の姿も霞がち。自分より高く明るいビルの光がまぶしそうだ。
あんまりビルが高いので、さぞやお月さん狭かろう
狭くなった空の上で、お月様も窮屈な思いをしているだろうが、空を狭めるほど立ち並んだビルの中で、今夜月が出ていることにも気が付かないようになった私たちの方が、もっと窮屈なのかもしれない。
狭くなった空の上の月を見ながら、月が夜空の主役だった頃の、広い夜空が懐かしく思えた。
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土用の頃
(2004.1.27[火])
暦には季節と季節の間に、四季それぞれに土用と呼ばれる期間がある。 古い季節が穏やかに去り、同時に新しい季節が十分に育つための期間と古人が考えたものである。 今は冬と春の間の土用である。
梅が咲き始めた。 いつものようにいつもの道を歩いて出勤する途中、ビルの壁を背にした梅の枝が花をつけていた。 狭い歩道一本隔てたところには冬の花、侘助も咲いている。
梅の花が春を知らせる花だとすれば、侘助と梅を隔てる歩道は季節の境。歩道に立てば右に冬、左に春。 目には見えない時の粒子が、右手から左手へと向かって流れて行く。
一つの季節がその役割を終え、生き物がそうであるように土に帰り、その土から新しい季節が芽吹く。 芽吹きつつある季節が今、梅の枝先に届いたようだ。
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カスタニエンの樹・後日談
(2004.1.20[火])
No.408で取り上げたカスタニエンの樹。 「カスタニエン」で検索したところ、同じく「夜と霧」を取り上げたサイトに行き着いた。
ホロコースト・絶滅収容所の記憶 http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/holocaust.html
カスタニエンの木は、その中の
強制収容所を巡る・アウシュヴィッツ http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/holocaust2.html
の中に、女囚が見たと思われる木として写真が掲載されていた。 このページには、「夜と霧」より、二つの言葉が取り上げられておりその一つが、 カスタニエンの樹 そしてあとの一つは 最もよき人々は帰ってこなかった
「夜と霧」は、自らもユダヤ人として絶滅収容所に収容されたフランクルが、そのの体験を綴ったもの。科学者(心理学者)であるフランクルの筆致は落ち着いたものであるが、その内容は「人間の可能性」が善悪の間にどれほど広く横たわっているかを考えさせてくれるものである。
日記とは言えないが、カスタニエンの樹の後日談として記録しておくことにした。
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永遠のいのち
(2004.1.16[金])
私はここにいる 私はここに 私はいのちだ 永遠のいのちだ 「夜と霧」より
ガラスの扉が開くと、真っ直ぐな影が伸びてきた。 まぶしい光の中から、真っ直ぐに伸びてきた。 その影を踏んだとき、一つの言葉が現れた。
もう二十年近く前に出会った本の中の、 決して忘れないだろうと思っていながら、 忘れかけていた言葉が。
六十年近く前に死んだ名前も知らない女性に、 カスタニエンの樹が語ったように、 冬枯れて、裸となった夏椿の樹が、 影に託して語りかけた。
私はいのちだ 永遠のいのちだ
逆光の中に立った夏椿もまた、 永遠の命を生きているのだと。
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〆切
(2004.1.13[火])
この年末年始は、実に休みの取りやすい曜日の巡りであった。このラッキーな曜日の巡りを最大限に利用した私は、12/26から1/5まで和歌山に帰ることが出来たのだが、この連続休暇の付けが今頃きている。 そして今、目の前には〆切が三つ。
一つ目は本業。こっちはまあ予めわかっていたことなので仕方がないし、何とか切り抜けられる(られた?)ようなのでひとまずは安心。
二つ目は、頼まれたソフトの作成。こっちは和歌山に帰っている間にも進めようと思っていたが、見通しが甘かったというのか、子供二人の攻撃は予想以上だったと言うべきか、ちっとも進まずやや泥沼。結局土・日・月の三連休は、これに時間を費やしてしまった(まだしばらく掛かるか?)。そろそろ焦らないといけない。
三つ目は、予定外のもの。正月明け、千葉の自宅に戻ると一つの手紙が。差し出しの日付は12/24。多分私が和歌山へ帰った日当たりに届いていたのだろう。内容は某雑誌からの原稿依頼(こよみのページとは直接関係ない)。私の留守の間に届いて、私の留守の間に、刻々と〆切までのカウントダウンを続けていた訳だ。
依頼された記事は、量的に言えば、1ページくらい。説明に1枚図を作らないとはいえ、まあ楽勝だろうと思った。そして忘れた。 今朝になって、自宅の机の上をごそごそしていると、封筒が一つ。何だろうと思って見たら・・・。うむ、〆切迫る。
昼休みに、文の下書きは書いたので(余った時間で、日記書き~)、あとは帰って説明図を一枚作り、印刷してFAX すれば〆切前日でセーフか・・・。 (それにしても、電話番号とFAX 番号が有るが今時 E-mailは無いのか? 有れば、書いた文章と図のファイルを添付したメールで一件落着なのに)
と目の前に〆切を三つ並べて眺めながら思いだしたのは休みの終盤、妻に尻を叩かれながら積み残していた冬休みの宿題を片づけている我が息子の姿。 〆切が迫らないと、ついついぼんやり過ごしてしまう息子の性格は、間違いなく親からの遺伝である。 息子の姿を見て、我が振りを直さないとと考えた、今日の私でした。
追記. よく考えてみれば、「〆切を並べて眺めている」というのは、かわうそが獲物を並べて眺めると言う獺祭(だっさい)と同じ類のものだろうか? (全然違う気もする)
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冬の雲
(2004.1.9[金])
「ひぇー、寒い」 地下街から地上へ出ると同時にあわててポケットをまさぐる。ポケットに入れた手袋が恋しくなる外の寒さだ。 頃は小寒と大寒の間、一年で一番寒い季節。 その上、ここ数年のうちに出現した高層ビル群のお陰で、谷間の村よろしく朝は日の光が届かない新橋・汐留界隈の朝は寒い。 そういえば昨夜は高層ビル群の上の青藍の空の真ん中に月が掛かっていた。あの月が一晩かけてじっくり空気を冷やしてくれていたに違いない。
交差点で信号待ちをする間に、ポケットから取り出した手袋を着ける。手袋の柔らかな感触が手に伝わるだけですでにいくらか暖かくなったような気がする。朝の小さな幸せだ。 信号が変わると、堰を切ったように信号待ちしていた人達が動き出す。しかも皆無言で。 自分もその「無言の一群」にいるわけだが、目的地の異なった大勢の人間が無言で歩いている様は、考えてみれば不気味かな。
そうこうするうち、汐留の高層ビル群の影を脱して朝日を浴びる。再び小さな幸せの瞬間である。目を閉じてもまぶたの裏が橙に染まるような陽の光を浴びて、やっと本当に目が覚めた気がした。 暖かい太陽の日射しにつられるように顔を上げれば、暖かな太陽のその上に、寒そうな冬の雲が有った。 舞い落ちる雪を感じて空を見上げる朝が、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
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動物の写真
(2004.1.5[月])
私:おかあさん、ちょっと見てご覧。かわいいよ
と家事に忙しい、妻を呼び止める。 見せようとしていたのは、2日に家族で遊びに行った白浜アドベンチャーワールドでの写真。 呼び止められた妻は、きっと子供たちの「可愛い笑顔」が写った写真を期待したのだろう、どれどれと言いながらのぞきに来た。そして一言、
妻:ハンッ! 何かと思えば・・・
期待を裏切って、私がうっとりしていたのはかわうその写真であった。 鼻の先から尻尾まで続く優美な曲線となめらかな毛並み、きりっと引き結ばれた口元、ピンと張ったヒゲに愛らしい足・・・。見れば見るほど、うっとり。
別に妻や子を放っていたわけではないのだが、妻の写った写真は1枚だけ。それも子供を撮った写真の端に「足だけ」写ったもの。やや御機嫌斜めの妻に、
私:人間の写真は苦手なんだ
と苦しい言い訳。
妻:たっちゃんやともくんは撮してるじゃない (注:たっちゃん、ともくんは息子たちの呼び名である)
私:え、だから人じゃなく動物の写真なら・・・
そんな会話の挙げ句に、その日の記念として選んだ写真はやはり動物の写真。「かわうそ日記」と名前を使わせて頂いているのだから、やはり敬意を表して載せておこう。
追記. 妻は、なぜ私が「かわうそ」を名乗っているのか、その理由は知らない。単にかわうそが好きだからだと思っているようだ。 まあそういっても、間違いではないか?
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年を越す頃
(2004.1.1[木])
年末年始は、和歌山の家に戻って家族と過ごしている。 年の瀬と言っても、これと言ったイベントを行うような我が家ではないので、いつもの帰省とそれほど違ったところは無い。いつもよりも念入りな掃除が行われるくらいのものである。
その掃除も済んだ昨日は、冬とは思えない暖かな日差しの一日だった。
「今日、銀杏のお寺に出かけない?」
多少暇が出来たのだろう家内が、日差しに光る枯れ草を眺めら言い出した。 年に一、二度、車で2時間ほどの距離にある「銀杏のお寺」に出かける。ただ出かけて、ただ大きな銀杏の木を眺めて帰ってくるだけだが、それもまた良い。 途中の河原で弁当を食べる算段をし、息子達をかき集めて車に乗せ、早々に出発。
子授け銀杏と言われるこの木のあるお寺へ詣でたあとに長男が生まれ、次男もまた生まれたことから、何となく時々銀杏を見に出かけるようになった。
「おまえ達は、この銀杏の木に生っとったんやで」
と銀杏の木を見ながら息子達には冗談めかして言っている。 この木が霊験あらたかなりと宣伝するつもりは無い。ただ自分一人で生まれて、自分一人で生きているのではなく、目に見えない何かで周りのものと自分が繋がっているということを、いつか「この銀杏の御陰で生まれてきたんだ」と言う素朴な言葉から感じてくれればと思うのみである。
一夜明けて、今日は大晦日。それも夜も更けてまもなく12時になろうという時間。まもなく新年である。 この日記をアップした頃には、太陽の視黄経は 280度と1/4度を少し超えた数値を示し、カレンダーの指す年に数字が一つ増える。新年と言ってもただそれだけのこと。
新しい年だからと言って、夜が明けると季節が変っているわけでは無く、世界がその姿を変えるわけでもない。昨日見た銀杏の木もまた、昨日と同じ姿に見えるに違いない。 それでも、まもなく年が明け、新しい一年が始まる。
やがて一年の後、再び今日という日を迎えてみれば、季節は巡り、世界は少しだけ姿を変え、銀杏もその身に一つ年輪を加えている。銀杏の木に生っていた我が息子二人も今とは違った表情を見せていることだろう。 また一年、この日記を書き続け、それらの小さな変化の一部を記録として留めて行きたい。
追記. 時計は0:14。知らぬ間に年の境界線をまたぎ越していた。
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