歳の終わりの夕暮れに
(2004.12.31[金])
一年最初の日の出は沢山の人がこれを眺めるのに、一年最後の夕日はそれと気づかれることもなく暮れていった。
仕果つる月、師走。その師走の最後の日になっても終えられそうもない沢山の予定を抱えて右往左往して過ごすうちに、今年最後の夕日は沈んでしまっていた。 日の沈んだ西の山の鉄塔の影が、去ってゆく今年最後の夕日の行方を示しているように見えた。
仕果てることの無い日常を乗せて、仕果てる月が終わろうとしている。そして十四時間の後には新しい年の朝日が昇る。 年の暮れでなくても、夕日はいつもそれなりに美しく、初日でなくとも朝日はそれなりの輝きを見せてくれる。
まあ、そんなものだ
そうつぶやくと、なんだか気持ちが軽くなる。 せっかく軽くなった気持ちだ。次の年もまた、軽い気持ちで軽々と生きていこう。本当に仕果てるその時が来るまで。
▲ ▼
師走の景色
(2004.12.18[土])
逝く者は斯くのごときか昼夜をおかず
週の後半は、いくらか冬らしい寒さが訪れた。 橋の袂に立てば、川面を行き過ぎる風の冷たさに襟が立つ。
足下には、いつまでも消えることのない暮色の中を流れる川が見える。 昼夜無く流れて逝く時が、街の灯を映している。
歳果つる月、師走も半ば。まもなくこの年も果て新たな年が訪れる。 歳果つる月を過ぎても、時は果てなく流れ続けてゆく。
川の流れを見るたびに、遙か昔の川上の嘆が頭をよぎる。 数え切れない歳月、数え切れない人が、数え切れない数、川のほとりに立ち止まって、それぞれの思いを抱いて川の流れに見入ったことだろう。
見つめるうちに、流れる続ける鈍色の川を、 明るく飾られた舟が一艘遡って行った。
▲ ▼
まだ寒露?
(2004.12.13[月])
秋の終わりから冬の初めにかけては、寒さがつのってゆく様子が感じられたと思ったのだが、近頃は寒さの進行は足踏み状態。 十二月も半ばになろうというのに、まだ冬という気がしない陽気である。
そろそろ、朝には草の上に降りた霜を踏んでの出勤となってもおかしくは無い時期なのだが、まだ霜の気配はなく、あるのは水滴ばかり。 「陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也」 といったところだ。これは二十四節気の寒露の描写。せいぜい十月の中旬か下旬。
晩秋の気候の内に歳越しになってしまわないだろうかと要らぬ心配をしてしまう。 寒いのは辛いが、その寒さがちっとも来てくれないと、なんだか寂しい気のする師走の風景である。
▲ ▼
紅葉襲(もみじがさね)
(2004.12.5[日])
ある午後のことである。 とある町で予定外の空き時間が出来た。
何も予定のない幸せな時間は裏通りの探検。 その街の古い城趾の東側の道を歩くと、高度の低い太陽が城跡の木々に隠れかけていた。
区画の整理された表の通りはつまらない。 一本裏の道に入れば、それぞれに住む人の違いによって生まれる庭の眺めの違いが楽しめる。
秋も終わりに近く、のぞき込む庭に花の姿は少ない。 庭の奥に藁葺きの屋根の見える古い家の庭をのぞき込むと、のぞく私の頭上に色の気配。
韓紅花の庭の紅葉が、庭を覗き込む私の姿を珍しそうに覗き込んでいた。
城趾に近づくと全体が公園となっていた。日陰となった公園の斜面にはひんやりとした晩秋の空気。 週末の午後の公園と言うのに人の姿がない。 不思議に思えたが、おかげで人目を気にせず怪しい行動がとれる。
城趾公園の急な斜面には沢山の紅葉の木が、斜面の裾には公孫樹の木が植えられていた。 地形の具合でいくらか秋の深まりが早いようだ。斜面の紅葉の葉の色が濃い。
坂の登り口で振り向けば手前に並ぶ紅葉の蘇芳色の落ち葉と、その先に並ぶ公孫樹の刈安色の落ち葉とが、互いの色を際だたせていた。
城跡の急な斜面への登り口には、蘇芳色と刈安色とが織りなすかさねの模様が広がっていた。
▲ ▼
|