かわうそ日記 ( 2006年02月 ) | こよみのページ |
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毎度のことながら
(2006.2.20[月])
◆毎度のことながら
となっていました。引用中の文字強調は私が行ったものです。 >例えば『3月初め』のような、新暦による指示通りに種をまいたり >苗を植えたりしても、出来が安定しない。何かズレを感じていた とあり、 >シキミの花が咲いたのに合わせてジャガイモを植え付けてみたとこ >ろ、収量がぐんと増えた。 とあります。これが、 例 >新暦の3月初めという指示通りではできが安定しないので、 例 >旧暦の2月初めと読み替えて実行してみたら収穫がぐっと増えた とでも言うのなら、旧暦の方が新暦より植物の生育に適していると言う例と成るかもしれませんが、記事の通りの話であればそれはその土地の他の植物の生育状況を見て種苗の好適時期を決めるという、至極もっともな話をしているだけで、旧暦の話など何処にも現れていません。 記事に登場した池田さんは、ひょっとすると他に「旧暦暮らしの実践例」を語られていたのに記事ではそれが取り上げられなかったのかもしれませんので、池田さんがおかしなことを言っているとは申せませんけれど、記事としてのまとめ方はあまりにもおかしい。 旧暦には旧暦の良さもあるのでしょうが、この記事のようなおかしな話で旧暦の良さを語るのはやめてほしいものです。 今までにも何度も同じような旧暦にまつわるおかしな話に遭遇しておりますので、「毎度のこと」とは思いながら、書かずにはいられない話でした。 ◆ついでの話・・・季節感について思う 「新暦と旧暦ではどちらがより季節感に合致するか」とか「西洋から輸入された合理性一辺倒の新暦には季節感が乏しい」という話をよく耳にします。こんな話を耳にする度、私には不思議な感じがします。 「季節感を大切にしたい」 といいながら、どうしてそんなにお仕着せの「暦上の季節」に囚われるのでしょうか。 山の色、野の花々、田畑の様子、吹き抜ける風や降る雨の感触、見上げる夜空の星座の移り変わり、そうした一つ一つを見ること、感じることの集積が季節感なのではないのでしょうか。 そうしてそれぞれが獲得した「季節感」が長い間に使用している暦日や、暦日に固定された年中行事と結びついて、 暦の上の季節 と言うものになってゆくのだと思います。 その前提となる、自ら季節を感じると言う部分をおろそかにして、出来合いの暦の上の季節感なるものでよしとするのは、なんだか本末を転倒してしまっている議論と思えてなりません。 いま我々が暦の上に感じる季節感は、大勢の人たちが感じた季節感の集積として幾世代もかけて醸成されてきたものです。ですがそれは決して完成形ではなく我々がそれぞれに感じる季節感をその上に積み重ねることで、少しずつ変わってゆくもののはず。 暦の上に季節感を読み取ることはすばらしいことですが、それだけで自らが季節を感じることが出来ないようになってしまったら、季節感という言葉はその意味を失ってしまう気がします。 道ばたの草を見ても、ただ道ばたの草でしかないのか草の芽吹きに春の兆しを感じるのか。暦の上の季節感が正しいの間違っているのと議論するより大切なことは有ると思うのです。 言わずもがなのことですけれど、ついでの話でした。 |
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