暦と天文の雑学
http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0745.html
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七五三のはなし
木枯らしの吹き始める、11月も半ば(11/15頃)の土日になると、晴れ着に身を包んでお宮に詣でる親子の姿を見かけます。七五三です。
今回はこの、「七五三のはなし」です。
●七五三
子供のこれまでの成長を祝い、さらなる今後の成長を祈念して神社・氏神に詣でる行事。七五三の祝い(しめのいわい)とも呼ばれる(らしい・・・)。
現在は主に十一月十五日に行われることが多い。
男児は三歳・五歳
女児は三歳・七歳
に祝うことが一般的であるが、男女とも区別無く三・五・七歳のいずれにも祝うことも増えてきているようである。
現在は、単なるお祭り化してきてしまっているが、医療が十分発達しておらず子供の死亡率の高い時代には、節目節目で子供のそれまでの成長を感謝するとともに、今後も無事に成長するように神を祭って祈ったものである。
このように歳祝いは目出度いから祝うと言うだけでなく、祝うことで目出度い未来を招来する行事であったと考えられる。
●どうして十一月十五日
●昔の七五三の行事と意味
元々七五三は、それぞれの年齢に毎に行われていた年祝いが一つになったものである。
先に書いたように、男児と女児で祝いう年が違っているのも、元をたどると古いそれぞれの年祝いに由来していたりする。
と言うことで、「古い年祝い」について書いておくことにしよう。
初出 2003/11/16
修正 2015/10/27 (徳川綱吉の子、徳松の記事を追記)
修正 2022/09/28 画像追加
木枯らしの吹き始める、11月も半ば(11/15頃)の土日になると、晴れ着に身を包んでお宮に詣でる親子の姿を見かけます。七五三です。
今回はこの、「七五三のはなし」です。
●七五三
子供のこれまでの成長を祝い、さらなる今後の成長を祈念して神社・氏神に詣でる行事。七五三の祝い(しめのいわい)とも呼ばれる(らしい・・・)。
現在は主に十一月十五日に行われることが多い。
男児は三歳・五歳
女児は三歳・七歳
に祝うことが一般的であるが、男女とも区別無く三・五・七歳のいずれにも祝うことも増えてきているようである。
現在は、単なるお祭り化してきてしまっているが、医療が十分発達しておらず子供の死亡率の高い時代には、節目節目で子供のそれまでの成長を感謝するとともに、今後も無事に成長するように神を祭って祈ったものである。
このように歳祝いは目出度いから祝うと言うだけでなく、祝うことで目出度い未来を招来する行事であったと考えられる。
●どうして十一月十五日
- 七五三の日付の意味
- 元は、十一月の吉日を選んで七五三の行事が行われており、「十一月十五日」と決まっていたわけではない。
日付が現在のように固定されてきたのは江戸時代の中頃。三代将軍家光が、後の五代将軍綱吉(幼名徳松)の病弱であることを心配し、これの無事成長を祈るために、慶安三(1650)年十一月十五日に袴着の儀式を行ったのが切っ掛け。庶民もやがてこれにならい現在のように十一月の十五日に歳祝いを行うようになった。
後日追記 2015/10/27
・もう一人の『徳松』の祝い説
七五三の祝いが十一月十五日に固定された切っ掛けとなったものとして、もう一つの説があります。
こちらは五代将軍徳川綱吉の長男、徳松(綱吉の幼名と同じ)の三歳の祝いが、天和元(1681)年の祝いであるとする説です。
こちらの徳松もまた病弱で、残念ながら、天和三(1683)年閏五月に数え年五歳で亡くなりましたので、この天和元年の祝いが、最後の七五三の祝いだったことになります。
どちらの説が正しいのか、断定できないので両論併記しておきます。
- 十一月十五日はなぜ目出度い?
- 日の吉凶を占う方式の一つに二十八宿というのがある。現在でもまだ使われているが、昔は今以上に信じられていた(弘法大師が中国から持ち帰ったという話とともに有り難がられた)。その二十八宿のうちで最良の吉日とされたのが「鬼宿日」。
この二十八宿には中国系とインド系の2つの系統があり、計算法が違うのだが、江戸時代の初めに日本で使われていた宣明暦はインド系の計算方式(二十七宿)であった。この方式では十一月の鬼宿日は十五日。
「十一月の吉日に行う行事」であった子供の歳祝いの日付としては、最適の日だったのだろう。 - 鬼宿日と二十八宿
- ◎鬼宿日とお釈迦様
「宿」とは中国で生まれた星座。二十八宿は月の通り道にある28の星座の意味。
月が28の宿の一つ、鬼宿にあった日にお釈迦様が生まれたと言い伝えられるところから、鬼宿日が最も目出度い日と考えられるようになった。 - ◎二十八宿の計算方式
二十八宿は古代中国の天文学から生まれたものである。これはやがてインドへ伝わり、占いの様相を帯びて中国に逆輸入され、日本にも仏典(宿曜経)として伝わってきた。
前にも書いたように、二十八宿には中国系(二十八宿)とインド系(二十七宿)がある。中国系の二十八宿は日の干支と同じく、一番目の宿から始まって、二十八宿まで行けばまた一宿に戻るという選日法である。
これに対しインド系の二十七宿は、月の朔日の宿が決まっていて、あとは順番に割り振ると行った六曜に似た選日法である。であるから、二十七宿方式だと、月毎の鬼宿の日は毎年同じ日となる。この日付は次の表の通り。十一月は十五日である。
二十七宿方式による「鬼宿日」と月の関係 月と鬼宿日 月と鬼宿日 月と鬼宿日 月と鬼宿日 正 月 十一日 四 月 五日 七 月 二十五日 十 月 十八日 二 月 九日 五 月 三日 八 月 二十二日 十一月 十五日 三 月 七日 六 月 朔日 九 月 二十日 十二月 十三日
●昔の七五三の行事と意味
元々七五三は、それぞれの年齢に毎に行われていた年祝いが一つになったものである。
先に書いたように、男児と女児で祝いう年が違っているのも、元をたどると古いそれぞれの年祝いに由来していたりする。
と言うことで、「古い年祝い」について書いておくことにしよう。
- 髪置(「かみおき」 三歳・男女)
- 昔(江戸時代以前?)は幼児の髪は剃っているのが普通だった(自分で髪の手入れなど出来なかったからかな?)。
三歳になると、ようやく髪を伸ばすようになる。この節目として行われるのが髪置の儀式。子どもが将来白髪頭になるまで長生きするようにと言う祈りを込めて、白髪に見立てた綿帽子を子どもの頭に載せる行事が、「髪置」である。 - 袴着(「はかまぎ」 五歳・男児)
- 男児が初めて「袴」をはく儀式。「袴」という大人が公の場で身につける衣服を着用すると言うことで、男として社会の一員となると言う意味を持つものなのだろう。
なお、この際に子どもを冠を着けさせて碁盤の上に載せ、四方の神を拝させたと言う。碁盤は、「勝負の場」の象徴として用いたものらしく、この子が大きくなって出会うであろう人生での様々な「勝負の場」で四方を制するという意味を持ったものとか。
この意味合いからすると、武家社会となってからの行事のようであるが、この点は明確でない(私の調査不足です)。 - 帯解(「おびとき」 七歳・女児)
- 女子が、着る着物の着け帯び(縫いつけてある帯?)をはずして、代わりに大人と同じに帯を締める行事。これによりは女児から「女性の一人」と認められると言うことか。
帯を締めるのに「帯解?」という気もするが、ここで解くのは「着け帯び」のこと。誤解の無いように。
なお、帯は「魂をその内にしっかりととどめおく」ものだそうで、帯を締めることによって、身を持ち崩すことのないようにと言う願いを込めるものとか。
(「身を持ち崩す」なんて表現は、最近はしないのかな?)
髪置親・冠親・帯親 七五三の源流である、髪置き・袴着・帯解にはそれぞれにこの儀式に参加する重要な人物があり、「○○親」とよぶ。 それぞれの年祝いは子どもの成長を祝う行事であるが、また一面では社会を構成する一員として、子どもを迎え入れる節目の行事でもある。その為、この儀式には子どもが地域社会への参加することに関する一種の「保証人」の役目をも持っている。 どういった立場のものがこれに選ばれるかをざっと見てみよう。
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- 余 談
- 七五三と童謡「とおりゃんせ」
- 「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ・・・」
よく知られた童謡のとおりゃんせは七五三の祝いに天神様にお札を納める模様を謡った歌。
何処の天神様かというと諸説あるが、川越城内にあった三芳野天神という説が有力。神社が城内にあったため(元はと言えば神社があったところに城が後から出来たのだが)、警護が厳しく、素振りを怪しまれでもすると、無事に出てこられないかもしれないと言うので、「行きはよいよい、帰りは怖い」と謡われたのでは無いかと言われる。 - とおりゃんせ異説・・・かわうその想像
- それにしても何となくおどろおどろしいとおりゃんせの歌詞。上の説明だけでは何となく物足りないような気もする。
いろいろと想像を巡らしてみると、もしかしてと思うのが、「七つ前は神の内」という言葉。幼児の死亡率が高かったその昔は、七つを迎えるまではその子が無事に大人になるかどうか不確かな部分が多いとして、人間社会の構成員とは考えず、「神様の子」と考えた。だから、子供が急逝してもそれは神が、自分の子を連れて行ったものと考えたわけである。
七つの歳祝いを過ぎればようやく子供は人間社会の一員として、神の手を離れるわけで、そう考えれば「七つのお祝い」は神の世界から人間の世界へ向かう最終試験のようなもの。
天神様に七つのお祝いのお札を無事に納め、子供と再び帰ることが出来るか、はたまた神が最後の瞬間に子供を連れ去って行くか。「怖いながらもとおりゃんせ」だったのかもしれないと考えるのは、考え過ぎかな??? - 千歳飴
- 江戸は浅草で平野甚右衛門という飴屋が売り出したものがその始めと言われる。
最初から現在のような縁起物の様相を呈していたわけでは無いらしく、七五三の土産にと言う、現代風に言えば販売効果を狙って、鶴亀・松竹梅をあしらった図柄の袋に入れたり、「千歳」などの目出度い言葉を名に冠したりしたものと言われる(最初の写真参照)。
ちなみに、この平野甚右衛門なる人物、豊臣氏の残党と言われる。その真偽は定かでないが、商売のセンスはあったようである。
初出 2003/11/16
修正 2015/10/27 (徳川綱吉の子、徳松の記事を追記)
修正 2022/09/28 画像追加
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