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【管鮑の交わり】 (かんぽうの まじわり)
 [史記管仲伝]
 (管仲と鮑叔牙とが互いに親しくして、終始交情を温めたことから)
 友人同士の親密な交際。
   《広辞苑・第六版》

 「私が昔貧乏だった頃、鮑叔と一緒に商売をした。儲けを分ける段では、私
  がいつも多くとった。だが彼は私を欲張りだとはいわなかった。私の家が
  貧しいことを知っていたからだ。

  鮑叔のためにと思って行ったことが失敗し、かえって彼を窮地に陥れてし
  まったことがあった。だが彼は私を愚か者とはいわなかった。物事は上手
  くいきときも、上手くいかないときもあると解ってくれたからだ。

  何度も仕官しては何度もお払い箱になったが、鮑叔は私を無能呼ばわりし
  なかった。私がまだ「時」に恵まれていないことを知っていたからだ。

  私は何度も戦に出て何度も逃げ帰ったが、鮑叔は臆病者とはいわなかった。
  私には養わなければならない老母がいることを知っていたからだ。
  ・・・」

 管仲(かんちゅう)も鮑叔牙(ほうしゅくが)もともに中国の春秋時代(紀
 元前8〜5世紀)、斉の国の政治家で、春秋時代最初の覇者として知られる斉
 の桓公に仕えた人物です。

 冒頭に書いたものは、管仲が晩年に鮑叔との関係を述懐した言葉です。
 こんな苦労をした管仲ですが、最後は凡庸であったといわれる君主の桓公を
 補佐して斉の国力を高め、桓公を覇者の地位まで押し上げました。後世の人
 はそんな管仲の力量を評して

   一国は一人をもって興り、一人をもって亡ぶ

 と言っています。長い中国の歴史においても、名宰相といえば真っ先に名が
 挙がる大政治家、それが管仲です。
 その管仲を宰相とするようにと、桓公を説得したのが親友だった鮑叔です。

 述懐にあったとおり、若い頃から行をともにすることの多かった管仲と鮑叔
 はともに斉の国に仕官しました。この斉への仕官がやがて二人の運命を大き
 く動かすことになりました。

 斉の国に仕官した二人はここで、管仲は公子(君主の子)糾に、鮑叔は公子
 小白にそれぞれ仕えることになり、その能力を買われてそれぞれ側近として
 重きを為すようになります。ちょうどそのころ、暴虐だった先代の君主が謀
 反にあって亡くなりました。

 謀反という異常な事態で急に君主の座が空いたことによって、二人の仕えた
 公子糾と小白の間で、跡目争いが起こりました。管仲と鮑叔はこの跡目争い
 の中で、敵味方に分かれました。糾側の管仲はこの争いの間、小白の即位を
 食い止めるために、小白の暗殺まで試みています。

 この跡目争いは、最後は鮑叔が仕えた小白の勝利に終わります。この公子小
 白が後に覇者となった桓公です。

 跡目争いに敗れた公子糾は処刑され、管仲も捕らえられて処刑を待つばかり
 という窮地に陥ります。その窮地から管仲を救ったのは鮑叔です。管仲の高
 い能力を知る鮑叔は、桓公に管仲を召し抱えるべきだと強く推挙します。

 自分を暗殺しようとまでした管仲のことですから、信頼する鮑叔の推挙でも
 桓公が簡単には首を縦に振るはずがありません。しかし鮑叔も引き下がりま
 せん。

  天下に覇をとなえる志があるなら、
  管仲を宰相(臣下の最高位)とするべきです。

 とますます強く推挙します。
 「天下に覇をとなえる志があるなら」という言葉に、ついに桓公も折れて、
 管仲を宰相として迎えました。

 こうして斉の宰相になった管仲は、鮑叔の期待を裏切ることなく、「一国は
 一人をもって興る」と評されたその力を発揮します。管仲を推挙した鮑叔は、
 一歩下がって管仲を補佐し続けました。

 人々は、管仲の類い希な才能を賞し、それ以上にその才能を見抜いて信じた
 鮑叔の明知を賞したそうです。
 冒頭の述懐を管仲は次の言葉で結んでいます。

 「・・・
  私を生んでくれたのは両親だ。
  そして、私を理解してくれたのは鮑叔だ」

 と。2700年前の管仲と鮑叔牙の物語でした。

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