【直をもって怨みに報い、徳をもって徳に報いん】
悪意には理性で、善意には善意で報(むく)いるのがよい。
《論語(久米旺生訳。徳間書店刊・二版)抜粋》
これは論語・憲問篇に登場する言葉です。
この言葉は、ある人からの質問に孔子が答えるやりとりの間に登場します。
やりとり自体も短いので書いておきましょう。
あるひと曰く、「徳をもって怨みに報いはいかん」。
子曰く、「何を持って徳に報いん。
直をもって怨みに報い、徳をもって徳に報いん」
《論語(久米旺生訳。徳間書店刊・二版)抜粋》
意訳すればこんな意味です。
(文責 かわうそ@暦)。
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ある人が孔子に問います。
「徳をもって怨みに報いる」という考えがありますが、いかがでしょうか?
これに対して孔子は答えます。
徳をもって怨みに報いたとすれば、徳を受けたときには何を報いればよいの
でしょうか。私は怨みを受ければ、これには理性を持って対処し、徳を受け
れば、徳をもってこれに報いるべきだと考えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−文責 かわうそ@暦−−−−−−−
「怨みに報いるに徳を以てす」
という言葉は、老子に登場する言葉です。書物としての老子は孔子の時代に
はまだ無かったはずですが、既に老子に書かれた説がある程度広がっていた
ことが分かります。
老子にある「怨みに報いるに徳を以てす」は、恨まずにはいられないような
仕打ちを受けても、博愛の心でこれを許し、徳を以てこれに報いるべきだ」
と云った意味です。
老子の言葉のとおりに出来るのであれば、理想でしょうね。
世の中の「理想を語る方々」がこうした考えを述べるのを何度も耳にしたこ
とがありますが、そのたびに私は、ある種の違和感と後ろめたさを感じまし
た。
「違和感」は、本当にそうだろうかという疑問が残るため。
「後ろめたさ」は、自分にはきっと出来ないだろうという思うため。
そんな違和感と後ろめたさを感じたときに、この言葉を思い出すとホッとし
ます。何もかも、「理想」のとおりでなくてもよいのだと言ってもらえたよ
うで。最良は無理でも、より良い対応が出来れば、それはそれで上出来だと
納得出来るからです。
酷い仕打ちを受けてもこれを許すとは言うは易く行うは難し。そのひどく難
しいことが出来る人もいるでしょうが、それが出来ない私のような小人もい
ます。そんな小人に
「理想的な対応は無理でも、なんとかここまでで踏みとどまりなさい」
という一線を示してくれる言葉です。
「怨み」という感情を消し去ることは出来なくとも、それを理性で押しとど
めることは出来る。
神ならぬ人の、現実的なあり方を教えてくれる言葉です。
オリジナル記事:日刊☆こよみのページ 2019/11/02 号
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