日刊☆こよみのページ スクラップブック
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■時の記念日
明日、6/10は「時の記念日」です。
時の記念日の日付は、「漏刻(ろうこく)」と呼ばれる時計によって時刻を
人々に知らせることが始められたことを記念するもので、日本書紀によれば、
天智天皇の十年四月二十五日 (グレゴリウス暦で表すと AD671/6/10)
となることから定められました。
この「漏刻」という時計は水時計で、宣明暦(せんみょうれき)に記された
漏刻の図からすると水を入れた水槽が5段あり、上の段から順次水が満たさ
れ、最後の水槽に浮かべた人形が、水位の変化に応じて時刻を刻んだ文字盤
(文字尺?)を指し示すようになっています。
このような複数段にしている理由は水圧を一定化して正確な動作をさせるた
めの工夫で、かなり高度な水時計だったと言えます。
残念なことにこの時計は翌年起こった壬申の乱によって焼失してしまったと
のこと。短命な時計でした。
もっとも壬申の乱が収まったあと、乱の勝者である天武天皇が飛鳥浄御原宮
(あすかきよみはらのみや)に再び建設したようです。
時計が使われるようになったことで、始めて一定の「時」を手に入れました。
当時使われた暦は1日が12刻に分割された十二辰刻(じゅうにしんこく)法
で、子の刻から始まって亥の刻まで、十二支が順に配されていました。
一刻は1日を十二等分したものですので、現在の時間にすれば2時間という
ことになります。
人々への時の知らせには、鐘や太鼓が使われたと考えられます。
漏刻は都以外にも太宰府など地方の要衝にも建設され、時を告げたようです
が今の時計と違って扱いが面倒であったこと(つまり人手がかかる)ことか
ら徐々に使われなくなっていってしまったようです。
この辺は、「そんなに正確な時計が無くても、大体の時刻で問題ない」とい
う長閑な時代であったからかもしれません。
◇より細かな「暦の上での時刻」
漏刻の示す時刻は十二辰刻によったと書きましたが、暦を作るために行う天
体観測などには、2時間の長さの1刻では目盛りが荒すぎて使いにくいこと
から、こうした用途には、
百刻法
が使われていました。
ややこしいのはこの百刻法の単位も「一刻」。先の十二辰刻の単位も「一刻」
ということ。どっちを使っているのか気をつけないと混乱しますね。
そのほかにも、 100が12で割り切れない数字であるので、百刻法と十二辰刻
法の変換もややこしい。十二辰刻の一刻は、百刻法の
100 ÷ 12 = 8.33333.... = 8と1/3 (刻)
なんですね。判りにくいこと。
◇暦と時計
漏刻が作られた時代は、現実の生活には「正確な時計の存在」は必ずしも重
要では無かった時代ですが、暦にとってこの時計の存在は重要な意味があり
ました。
それは一定の時を得ることで、暦の元である天体の運行の様子が大変厳密に
測定出来るようになり、季節による天体の見かけの位置の変化などもこれに
よって飛躍的に「高い精度」で知ることが出来るようになりました。
この天体の観測の精度向上は、直接暦の精度向上に結びついたはず・・・。
と書きたいところですが、実はこのような暦の精度向上に役立ったのは本当
ですが、これは日本ではなくて、暦の先生であった中国での話。
日本ではまだ、中国からの暦をそのまま使うのみで、自国で独自に暦を作る
ための観測などはまだまだ行われなかったのでした。
まだ、時計と暦の精度向上の関係や、その必要性などが認識出来るほど日本
の暦学、天文学は発達していなかったのでした。
まあ、あまり役立った形跡のない漏刻ですが、それでも日本で始めて時計が
使われるようになった記念の日、それが時の記念日です。
(『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
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