日刊☆こよみのページ スクラップブック
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■お彼岸は行楽シーズン
今日は二十四節気の春分の節入りの日、春分の日です。
春分の日が現在は祝日であるためもあってこの日は何の日と問えば、
「春分の日」 あるいは 「春分」
と答えが返って来ることでしょう。
でも忘れていませんか、もう一つのことを。それは
「彼岸の中日」
です。
◇彼岸と彼岸の中日
春分の日とその前三日、後三日の計七日間を「彼岸(ひがん)」と言い、春
分の日はその「彼岸の中日」と呼ばれます。
秋にも秋分の日前後に同じく秋の彼岸があります。
彼岸とは仏教で考えるところの現世(生死の苦しみに迷う世界)と涅槃の世
界(悟りを得て常楽の境地に達した世界)をそれぞれ此岸(しがん)と彼岸
と、川のこちら側の岸とあちら側の岸と捉えて名付けられた言葉です。
彼岸に行われる法要、彼岸会(ひがんえ)のことも彼岸と言います。
彼岸の時期(春分、秋分の時期)は、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。
涅槃の世界は西の方の「西方浄土」にあると考えられますから、この時期に
真西に沈む太陽は、その西方浄土を示す道を示すものと捉えられ、この日に
阿弥陀如来の浄土を観想し、欣慕する法要が行われるようになったもののよ
うです。
彼岸の世界はまた、亡くなった人々が去っていった世界だとも考えられます
から、ここから彼岸には亡き祖先を敬って、墓参りを行うなどの習俗も生ま
れました。
なお、彼岸という行事は日本にはあっても、他の仏教諸国には無い独自のも
のだと言うことです。なぜ日本だけが? 不思議ですね。
◇彼岸の中日 > 春分の日
現在は「彼岸の中日」と言うより「春分の日」と言う方が判りやすいと思い
ますが、昔の人の感覚では「春分の日」というのは、二十四ある節気の一つ
に過ぎず、
春分 二月中
とあるだけの影の薄いものだったようです。
彼岸に行われる「彼岸会」が日本の歴史に登場するのは大同元年( 806年)
が最初だとされます(日本後記)から、彼岸の歴史はかなり古いものだと考
えられます。
彼岸が暦の中に取り入れられるようになったのは、比叡山の坂本で能弁な僧
を選んで彼岸会の説法を行うようになり、これが評判となって人々が集まる
ようになったのですが、彼岸の時期は当時の太陰太陽暦では毎年日付が移動
してしまって不便であるということから、比叡山の要請を受けて近隣の暦家
がこれを暦に書き入れたことに始まったと言われます。
今の私たちからすれば、僧の説法を楽しみにするというのはなかなか判りに
くい話ですが、楽しみの少ない当時としては、立派な娯楽(それも、後ろ指
さされることのない)の一つだったのでしょう。
また、徒歩以外旅行の手段が無かった当時としては、彼岸会の説法を聞くた
めという理由での比叡山への旅は、気候の良い春(秋)の物見遊山の旅にも
なったことでしょう。
◇ちょっと罰当たり?
さて、古くから彼岸には「彼岸会の説法」を出しとした物見遊山の側面があ
ったようですが、この伝統をひいたのか、江戸時代もまた彼岸はお参りを出
しとした行楽行事の一つだったようです。
江戸では阿弥陀如来を安置した六つの寺を巡る「六阿弥陀参り」が流行した
そうです。この六阿弥陀参りには、これにかこつけて途中にある岡場所や遊
郭に遊びに行くと言う輩も大分混じっていたようで、
五番目の阿弥陀は二百の中にいる
なんて言う川柳も詠まれたとか(五番目の常楽院が特に遊郭に近かった)。
もちろん「二百」とは遊郭の女性の数のことなのでしょうね。
まあ、六阿弥陀参りが目的か、単なる出しかの違いはあれ、沢山の人たちが
巡り歩いたことは確か。
徒歩で、かなりの距離を移動するため、効率よく巡るための案内書まで出版
されていたそうです。
時代は変わりましたが、彼岸は暑くもなく寒くもなく、また緑も花も美しい
季節。行楽を兼ねて(?)、お彼岸の墓参りはいかがですか?
(『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
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