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■今何時? 混乱していた江戸の時刻2
 本日は、元禄二年三月二十九日(西暦1689/05/18)に芭蕉が鹿沼から日光ま
 での 7里の距離を

  辰の上刻( 8時頃?)〜午の刻 (12時頃?)

 で移動出来たのかの話の続きです。
 「混乱していた江戸の時刻2」じゃないのかって?
 まあ、同じようなものですので、お付き合い下さい。

 昨日の話は十二支で表す暦の時刻、辰刻法(定時法)と日常生活に使われる
 夜明けと日暮れをそれぞれ明け六ッ、暮れ六ッとして定めた時鐘式(不定時
 法)の時刻があったと云うところまででした。では、その先に行きましょう。

◇二つの時刻の比較
 まずは単純(?)な辰刻法から。
 辰刻法の時刻を現在の時刻で表してみましょう。

  子刻(23〜 1時) 丑刻( 1〜 3時) 寅刻( 3〜 5時)
  卯刻( 5〜 7時) 辰刻( 7〜 9時) 巳刻( 9〜11時)
  午刻(11〜13時) 未刻(13〜15時) 申刻(15〜17時)
  酉刻(17〜19時) 戌刻(19〜21時) 亥刻(21〜23時)

 一辰刻 2時間ずつ。定時法に慣れた私たちには分かりやすい時刻です。
 では、私たちからするとちょっと不慣れな不定時法の時鐘の時刻はというと

  夏至の頃(京都)
  暁九ツ(00:00〜 1:23(子)) 暁八ツ( 1:23〜 2:46(丑))
  暁七ツ( 2:46〜 4:09(寅)) 明六ッ( 4:09〜 6:46(卯))
  朝五ツ( 6:46〜 9:23(辰)) 朝四ッ( 9:23〜12:00(巳))
  昼九ツ(12:00〜14:37(午)) 昼八ッ(14:37〜17:14(未))
  昼七ツ(17:14〜19:51(申)) 暮六ッ(19:51〜21:14(酉))
  夜五ツ(21:14〜22:37(戌)) 夜四ッ(22:37〜24:00(亥))

  冬至の頃(京都)
  暁九ツ(00:00〜 2:10(子)) 暁八ツ( 2:10〜 4:20(丑))
  暁七ツ( 4:20〜 6:30(寅)) 明六ッ( 6:30〜 8:20(卯))
  朝五ツ( 8:20〜10:10(辰)) 朝四ッ(10:10〜12:00(巳))
  昼九ツ(12:00〜13:50(午)) 昼八ッ(13:50〜15:40(未))
  昼七ツ(15:40〜17:30(申)) 暮六ッ(17:30〜19:40(酉))
  夜五ツ(19:40〜21:50(戌)) 夜四ッ(21:50〜24:00(亥))

 夏至の頃と冬至の頃を比べると時間が随分違っていることが分かりますね。
 さて、時刻の後の()に書いた干支ですが、先に書いた定時法の辰刻法との
 対応のためか、この時鐘の呼び方も九ツを「子刻」、八ツを「丑刻」という
 ふうに呼ぶことがありました。

◇現代人の誤解した解釈
 私たちは正確な時計による時刻に慣れているため、季節によって変わる不定
 時法というものが実感出来ず、それでいて「江戸時代は夜明けを明け六ッと
 いって一日の時刻の起点としていた」というその点だけを強調した不定時も
 どきの定時法を想像してしまうようです。その不定時もどきとは次のような
 もの(必要な箇所だけ抜粋)。

  現代風不定時もどき
  暁九ツ( 0:00〜 2:00(子)) 暁八ツ( 2:00〜 4:00(丑))
  暁七ツ( 4:00〜 6:00(寅)) 明六ッ( 6:00〜 8:00(卯))
  朝五ツ( 8:00〜10:00(辰)) 朝四ッ(10:00〜12:00(巳)) 以下略

 夜明けの時刻は季節によって変わることを無視して、「夜明け =  6:00」と
 固定して考えてしまうわけです。現代だと早起きの方でないと夜明けを日常
 に体験しないためでしょうか。

◇上・中・下刻
 芭蕉の記録にある「上刻」とは、一刻を上・中・下と分けたものです。
 幾らのんびりした昔でも一刻は 2時間前後で、単位としては少々長すぎるの
 でこれを補うために使われるようになったものだと思われ、日常に使われる
 時鐘法(不定時法)と組み合わせて使われます。三分割といっても

  始め(上)と中央(中)と終わり(下)

 のような使い方をするので、下刻は次の時刻の上刻と同じと考えられます。
 時鐘法の一刻の細分には他に「半」というのがあり、

  明け六ッ半、朝五ッ半

 のように使います。この上中下刻と「半」の関係にも大きく二通りがあり混
 乱させてくれます。辰の刻を例にとって二つの解釈を示します。

  解釈A(△): 辰の上・中・下刻 = 五ッ ・五ッ半・四ッ
  解釈B(○): 辰の上・中・下刻 = 六ッ半・五ッ ・五ッ半

 困りました。一般には、解釈Bが「妥当」とされていたようですが、全部が
 そうとは言い切れない。記録を残した人がABどちらの解釈をしたのかなど
 書いてくれていないので、最後は時と場合(人と場合かな)に応じて、その
 記述を解釈していかないといけない。推測するしかない部分があります。

◇芭蕉の旅の記録は?
 さて、芭蕉の鹿沼から日光までの旅の記録「辰の上刻発・午の刻着」が「 8
 時発・12時着」と多くの本で解釈されるのは、

  「現代風の不定時法もどき」+「解釈A式上中下刻解釈」

 という組み合わせによるものと考えられます。こうなると芭蕉は28kmを 4時
 間で歩く必要があります。
 では、当時の記述方法でもっとも普通に行われていたと思われる

  「不定時法」+「解釈B式上中下刻解釈」

 を行うと、どうなるかと考えると、

  辰の上刻(六ッ半(5:15頃))発・午の刻(12:00頃)着
  ※時刻計算地は東京の経緯度で代用しました。

 ということになります。これだと芭蕉一行は 7時間弱の時間をかけて28kmを
 歩いたことになりますから、平均時速は約 4km。途中の休憩などを考えると
 これでもその健脚ぶりはすごいですが、忍者でなくても可能な速度です。

 今回は、芭蕉の旅を例にとって、江戸時代に使われた様々な時刻とその使用
 の混乱ぶりを書いてみました。芭蕉隠密(忍者)説は、その混乱した時刻系
 を更に現代人の常識で考えたため、一層混乱したわけですが、現代人ではな
 く江戸時代の人達もそれぞれの使い方はかなり混乱していたようです。

 こんなに混乱していて大丈夫なのかなと心配になりますが、その程度は許容
 範囲という生活をおくっていたと云うことでしょうか。
 当時の人たちの記録に、現代からあまり細かな文句をつけたら

  余計なお世話だ

 と江戸時代の人達に云われそうですね。
 最後に、記事が長くなりすぎたこと、申し訳ない。
 その上分かりにくいし・・・。

  (『暦のこぼれ話』に取り上げて欲しい話があれば、
   magazine.std@koyomi.vis.ne.jp までお願いします。)
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