グレゴリオ暦への改暦・1600年ぶりの大改革

「ああ、また春が近づいてくる・・・」 

グレゴリウス13世
ローマ教皇 グレゴリウス13世
(在位期間 1572-1585年)
 彼は毎年、春が近づくこの時期になると憂鬱になる。それはこの時期になると彼の抱えているある問題を思い出すからである。彼の名はグレゴリウス13世。職業(?)はローマ教皇。頃は1575年頃だと考えていただきたい。
 彼の悩みの種は本当の春分と「暦の上の春分」がずれていることである。

 ローマ教皇が春分の日なんかを心配必要があるのかというと、これが「ある」のだ。
 キリスト教徒にとって1年で最も大切な祝祭日といえば「イースター(復活祭)」である。この日は十字架に懸かったイエスが、キリストとして復活した日を記念したもの。謂わば神の誕生日とでもいうほどの大切な日である。そしてこの大切な日を祝うイースターは
 「春分以後の最初の満月の、直後の日曜日
と定められている。だから春分の日が何時であるかは重要なのである。

 古代ローマ帝国でキリスト教が国教として認められたのは西暦321年。その直後の325年にキリスト教最初の公会議とされるニケア公会議が開かれた。この時の重要な議題の一つがイースターの日付をどの様に決定するかという問題であった。そこで決定されたのが先に書いた「春分以後・・・」である。そしてもう一つ、「春分の日は3月21日とする」ということも決められた。そしておよそ1200年・・・。
 ニケア公会議当時、ローマ帝国で採用されていた暦は「ユリウス暦」である。ユリウス暦の名前はこよみのページのあちこちに登場するが、それは現在の暦の基本的な骨格がこの暦によって出来たと言ってもよい重要な暦であるからである。ユリウス暦の最大の特徴は「4年に1日の閏日が入る」ことである。ユリウス暦は2000年以上も前に作られた暦としては十分実用的でありかつ、精度も程々(誤差は1年で11分4秒程)の優秀な暦であった。
 しかしユリウス暦が出来て1600年(ユリウス暦使用は紀元前45年から)も経つと、わずかな誤差が積もりに積もって約14日もの誤差となっていた。実を言えばニケア公会議当時でも既にその誤差は顕在化しており、古くから伝統的に3月25日とされていた春分の日が実状にそぐわないものとなっていたため改めて「春分の日は3月21日」と決め直していたのである。

 ニケア公会議が開かれた時代に見直された春分の日であったが、一旦春分の日が「暦の上で3月21日」と決定されると、以後は盲目的に「3月21日=春分の日」と考えられるようになり俗に言う「中世の暗黒時代」で科学技術の進歩が停滞した時期においては、天文学的な意味での春分の日と「暦の上での春分の日」の問題さほど注意されなくなってしまった。そして1200年、さすがにこの矛盾が無視出来なくなってきていた。キリスト教国の杜撰な暦は、ユダヤやイスラム世界の進んだ天文学を持つ者たちの物笑いの種にもなっていた。またルネッサンス期を向かえて再び科学技術への関心に目覚めたキリスト教国の内部からも暦の矛盾を指摘する声が挙がりはじめた。
当時の実際の春分の日は3月11日。3月21日という暦の上の春分の日との間には既に10日あまりのずれが生じていた(下表参照)。
ユリウス暦での真の春分日の日付の変化

トレント公会議
トレント公会議
 グレゴリウス13世が教皇となる前から既に改暦の動きは始まっていた。最初の動きは1514年、レオ10世がラテラノ公会議で改暦問題に関して意見を聴取したことに始まり、1545年から20年間にわたって断続的に行われたトレント公会議などでもこの問題が話し合われた。
 ユリウス暦で1年毎に生ずる誤差11分4秒は400年でほぼ3日の長さとなる。この3日の長さが余分である。そこで400年で100回挿入されていた閏日を3回減らし97回の挿入に変更するという暦の改良を行うことになった。このため西暦の年数が100で割り切れるかつ、400で割り切れない年は閏年としないこととして3日の閏日を除くことにした(この辺の話しは、うるう年の話しをお読みください)。これによって、これ以後の暦と実際の1年の長さの差は1年ごとに26秒と小さい範囲に押さえることが出来るようになる。この閏年の決め方によれば将来の暦日のずれは押さえられる(誤差が1日の長さに達するまでには3000年の猶予が出来る)。
 さて、将来の問題はひとまず解決(3000年後に先送り)したが、まだ問題はある。既に累積してしまったずれ、10日である。
 ニケア公会議では春分の日を、伝統的日付だった3月25日から3月21日に変更するという方式をとったが、今回はそうはせず、解決法として採用されたのが

  「暦上から10日間を削除する」

というものであった。ちょっと乱暴過ぎる方法に思えるが、この乱暴な方法が採用された。実際に行われたことはといえば、
「1582年10月4日の翌日は10月15日とする」というもの。これによって1582年の10月5日〜14日の10日間の日付が暦の上から失われたのである。
 この時期が選ばれた理由はキリスト教における重要な祝祭日が無かったことによる。また、曜日に関しては連続を保つことにした。このため、10月4日(木曜日)の翌日は10月15日(金曜日)となった。

1582年10月のカレンダー
SunMonTueWenTheFriSat
  1 2 3 41516
17181920212223
24252627282930
31      


 この改革が成ったおかげで、ひとまず「教皇グレゴリウス13世の悩み」は解消された。この改革の結果生まれた暦法はグレゴリオ暦と呼ばれ、やがて世界に拡がって、現在の事実上の世界標準の暦となっている。

●グレゴリオ暦のその後
 グレゴリオ暦はローマ教皇の影響力の強いカトリックの国々(旧神聖ローマ帝国諸国)には比較的早くに導入された。しかし同じキリスト教の信者であってもプロテスタントの勢力の強い国々の反発は強く、普及にはかなりの歳月を要することとなった。改暦を命じたグレゴリウス13世がプロテスタントの人々には評判のよくない教皇であったことも、普及を妨げた要因のひとつだったようだ。有名な天文学者であるケプラーの言葉を借りれば、

プロテスタントは教皇と仲良くなるくらいなら、太陽と不仲であるほうがよいと考えているようだ

と当時の様子を端的に表現することができる。概して、同じキリスト教であり、かつ宗派の異なる国ほどローマ教皇の定めた暦法を導入することには抵抗が強かった。抵抗の強かった主な国での導入状況は
  • イギリス(英国国教会)1752年
    ※なおこの変更に合わせ、年初も3月25日から1月1日に変更
  • ロシア (東方正教会)1918年
  • ルーマニア(東方正教会)1919年
  • ギリシャ(ギリシャ正教会)1924年
となっている。キリスト教国とは言えない日本が、開国から数年後の1873年にすぐ、グレゴリオ暦を導入しているのと比べて考えると、上記の国々の導入がどれほど遅れたかがよくわかる。人間社会と密接に結びついた暦は「合理的な方を採用しよう」とは、簡単にいかないという一例だといえる。

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  1. 2000年問題と閏年
  2. イースターと二つの日付
余 談
キリスト教の宗派の抵抗・その2
 イースターの決定方法については、東方正教会派は未だにこのローマ教皇方式をとっておりません。またその暦日計算についてもグレゴリオ暦ではなくユリウス暦を用いています。このため、こよみのページの「キリスト教の移動祝日計算」においても、両系統の計算方法およびグレゴリオ暦とユリウス暦による暦日を表示しています(面倒なことですね)。
消えた10日間を返せ!
 暦から10日間の日付が消えてもどうってことはないいような気もしますけど、商取引をしているものや金貸し業ではそうも言っていられません。月末返済のお金の金利はどうなるとか、商品の到着予定日はどうするとかいろいろ混乱はあったみたいです。「盗まれた10日間を返せ」なんて言う訴訟騒ぎもあったとか。
 社会、経済活動が全地球的に拡がっている現在では、その影響が恐ろしくて「改暦しよう」なんていおいそれとは言えませんね。
※記事更新履歴
初出 2006/08/17
更新 2022/04/26 図表追加。説明文の一部を加筆修正。
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