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グレゴリウス暦への改暦・1600年ぶりの大改革
    「ああ、また春が近づいてくる・・・」
 彼は毎年、春が近づくこの時期になると憂鬱になる。それはこの時期になると彼の抱えているある問題を思い出すからである。彼の名はグレゴリウス13世。職業(?)はローマ教皇。頃は1575年頃だと考えていただきたい。
 彼の悩みの種は本当の春分と「暦の上の春分」がずれていることである。

 ローマ教皇が春分の日なんかを心配必要があるのかというと、これが「ある」のだ。キリスト教徒にとって1年の内で最も大切な祝日といえば「イースター(復活祭)」である。この日は十字架に懸かったイエスが、キリストとして復活した日を記念したもの。「春分後、初めての満月の直後の日曜日」がイースターと定められていたから、春分の日が何時であるかは重要なのである。

 古代ローマ帝国でキリスト教が国教として認められたのは西暦321年。その直後の325年にキリスト教最初の公会議とされるニカイア公会議が開かれた。この時の重要な議題の一つがイースターの日付をどの様に決定するかという問題であった。そこで決定されたのが先に書いた「春分後・・・」である。そしてもう一つ、「春分の日は3月21日とする」ということも定められた。そしておよそ1400年・・・。
 ニカイア公会議当時、ローマ帝国で採用されていた暦は「ユリウス暦」。ユリウス暦の名前はこよみのページのあちこちに登場する。現在の暦の基本的な骨格はこのユリウス暦によって出来たと言ってもよい。その最大の特徴は、「4年に1日の閏日が入る」ことである。これはこの当時作られた暦としては十分実用的でかつ精度も程々(誤差は1年で11分4秒程)であった。
 しかしユリウス暦が出来て1600年(ユリウス暦採用は紀元前46年)も経つとこの誤差がつもりつもって、約14日の誤差となっていた。実を言えばニカイア公会議当時でも既にその誤差は顕在化しており、古くから伝統的に3月25日が春分の日と考えられていたものが実状にそぐわないものとなっていたため改めて「春分の日は3月21日」と定めたのである。

 一旦春分の日が「暦の上で3月21日」と決定されると、以後は盲目的に「3月21日=春分の日」と考えられるようになり俗に言う「中世の暗黒時代」で科学技術の進歩が停滞した時期においては、天文学的な意味での春分の日と「暦の上での春分の日」の問題さほど注意されなかった。そして1200年。さすがにこの矛盾が無視出来なくなってきた。キリスト教国の杜撰な暦は、ユダヤやイスラムの進んだ天文学者たちの物笑いの種にもなっていた。またルネッサンス期を向かえて再び科学技術への関心に目覚めたキリスト教国の内部からも暦の矛盾を指摘する声が挙がりはじめた。
当時の実際の春分の日は3月11日。既に暦日と10日あまりのずれを生じていた。

 グレゴリウス13世が教皇となる以前、既に改暦の動きは始まっていた。最初の動きは1514年レオ10世がラテラノ公会議で改暦問題に関して意見を聴取したことに始まり、1545年から20年間にわたって断続的に行われたトレント公会議などでもこの問題が話し合われた。
 ユリウス暦では1年毎に生ずる誤差11分4秒の差は400年でほぼ3日の長さとなる。ということで閏日を400年で3日除くこととした。このため西暦の年数が100で割り切れるかつ、400で割り切れない年は閏年としないこととして3日の閏日を除くことにした(この辺の話しは、うるう年の話しをお読みください)。これによって、これ以後の暦と実際の1年の長さの差は1年ごとに26秒と小さい範囲に押さえることが出来るようになる。この閏年の決め方によれば将来の暦日のずれは押さえられる(誤差が1日の長さに達するまでには3000年の猶予が出来る)。
 さて、将来の問題はひとまず解決(3000年後に先送り)したが、まだ問題はある。既に累積してしまったずれ、10日である。そして、その解決法として採用されたのが

  「暦上から10日間を削除する」

という、ちょっと乱暴な方法である。実際に行われたことはといえば、
「1582年10月4日の翌日は10月15日とする」というもの。これによって1582年の10/5〜10/14の10日間の日付は、暦の上から失われたのである。
この時期が選ばれた理由であるが、この期間にはキリスト教における重要な祭日が無かったことによる。また、曜日に関しては連続を保つことにした。このため、10月4日(木曜日)の翌日は10月15日(金曜日)となった。

 この改革がなったおかげで、ひとまずは冒頭の「教皇グレゴリウス13世の悩み」は解消された。そしてこの暦法がやがて世界に広がり、現在の事実上の世界標準の暦となったグレゴリウス暦である。

記事訂正 (2003.12.09)
当初、1582/10/04を水曜日、10/15を木曜日と書いておりました(正しくは、木曜と金曜)。作者の計算ミスです。
記事をお読みくださったA.O さんからご指摘を受けて気がつきました。申し訳ありません出した。そしてA.O さんありがとうございました。

●グレゴリウス暦のその後
 グレゴリウス暦はローマ教皇の影響力の強いカソリックの国々(旧神聖ローマ帝国諸国)には比較的早くに導入された。しかし同じキリスト教の信者であってもプロテスタント派の勢力の強い国々の反発は強く、浸透には時間がかかった。とくにこのグレゴリウス13世はプロテスタント派の人々には悪評紛々の教皇であったのでそれも要因のひとつだったようだ。有名な天文学者、ケプラーの言葉を借りれば当時の様子は、「プロテスタントは教皇と仲良くなるくらいなら、太陽と不仲であるほうがよいと考えているようだ」だそうである。
 概して、同じキリスト教であり、かつ宗派の異なる国ほどローマ教皇の定めた暦法を導入することには抵抗が強いらしく、主な国での導入状況は
  イギリス(英国国教会)
   ・・・1752年(なお、この際に年初を3月25日から1月1日に変更)
  ロシア (東方正教会)
   ・・・1918年(ルーマニア・1919年、ギリシャ・1924年)
日本が、1873年に導入していることを考えると、不思議な気がしますね。
余 談
キリスト教の宗派の抵抗・その2
 イースターの決定方法については、東方正教会派は未だにこのローマ教皇方式をとっておりません。またその暦日計算についても正式にはグレゴリウス暦ではなく、ユリウス暦を用いております。このため、こよみのページの「キリスト教の移動祝日計算」においても、両系統の計算方法およびグレゴリウス暦とユリウス暦による暦日を表示しているのです。
結構大変でしょう?
消えた10日間を返せ!
 暦から10日間の日付が消えてもどうってことは無いような来もしますけど、商取引は金貸し業ではそうも言っていられませんよね。月末返済のお金の金利はどうなるとか、商品の到着予定日はどうするとかいろいろ混乱はあったみたいです。「盗まれた10日間を返せ」なんて言う訴訟騒ぎもあったとか。
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