新年の新しい火と水(鑽火と若水)の話
新年の新しい火と水(鑽火と若水)の話
 我々の生活になくてはならないものに火と水があります。この二つは太古の昔より、人間の生活を支える大切なものでしたから、新たな年を迎える時には、これを扱うための特別な行事がありました。最近は、大分廃れてしまってきた行事ですが、覚え書きのつもりで新年に行われる「火」と「水」のための行事について書いておきたいと思います。

火の話
人間の定義の一つとして「火を使う動物」というものがあります。このような定義が出来るほど、人間の生活と火とは密接に結びついたものでした。日々の食事の煮炊きに、灯りに、暖をとるために、そして危険な野獣や時には悪霊を遠ざけるために、火は使われてきました。
そうした、生きて行く上でなくてはならない火は特別なものと捉えられてきましたから、「火」に関係する新年行事がいくつかあり、その内容を見てゆくと「火」に対する様々な思いや考え方の違いがあって、なかなか面白いものです。新年の火にまつわる行事や風習を見てゆくと、大きく分けて、次に掲げる三つの型に分かれるようです。
  1. 新年には新しい火を用いる
  2. 旧年からの火を引き継いで用いる
  3. 特別に大きな火を焚く
では、それぞれの型について順に見て行くことにしましょう。
  • 新年には新しい火を用いる
     新しい年になれば、新しい清い火を熾してこれを使い続けるというもの。それまで用いていた火種ではなく、
      きりび(「鑽火」または「切火」)
    鑽火と呼ばれる新しい火を熾します。「きりび」は檜(ひのき)のような堅い木で作った火鑽臼(ひきりうす)と呼ばれる板に、これも堅い木質の山枇杷(やまびわ)などで作った、火鑽杵(ひきりぎね)と呼ばれる棒を揉み込んで熾した火で、神聖な清らかな火とされます。
     新年を迎えるに当たって、この方式で鑽火を熾す鑽火神事を行い、これによって生まれた清い火を、参拝者に分ける神社もあります。京都の八坂神社で大晦日から元日にかけて行われる「白朮祭(おけらまつり)」はそうした行事の一つで、参拝者は鑽火を火縄に移して持ち帰り、この火種から熾した火で新年の雑煮を作ります。
     鑽火は、木と木の摩擦から生まれた新しい火。まだ何ものにも触れず、穢されたことのない清浄な火と考えられたのでしょう。鑽火神事などはその清浄な火によって新しい一年を迎えようというものです。
     ちなみに白朮祭の朮(おけら)はキク科の植物で、その根茎を乾燥させ、砕いたものが漢方の生薬となります。本殿前で鑽火を点火した鉋屑(かんなくず)にこの生薬の朮が混ぜられています。このため、鑽火を移した鉋屑からは芳香が漂うそうです(残念ながら、私はこの芳香を嗅いだことがありません)。
     なお、火打石と火打金とを打ち合わせて出した火も新しい火、「きりび」です。こちらは漢字で書けば、「切火」の方でしょうか。こちらも新しい清浄な火と考えられます。
    朮(ホソバオケラ)の花
    ホソバオケラの花
    火打ち石
    火打ち石

  • 旧年からの火を引き継いで用いる
     新しい火を熾して新年を迎えるという考えに対して、こちらは、それまでの火を受け継ぎ絶やさないようにして、新しい年を迎えるというものです。
     こちらは大晦日の晩に、囲炉裏に正月中持つように大きな樫(かし)等の堅い材質の木をくべ、火が絶えないようにしたそうです。火を絶やさないようにくべる木片(というには大きいが)を世継榾(よつぎほだ)と呼ぶそうです。
    囲炉裏の火 今では、囲炉裏自体がなくなりましたので、それとともに廃れてしまった行事ですが、火の永続性を願う行事だと考えられます。
     人間生活に欠かせない火の永続を願うと云うことは、その家が代々絶えることなく続いてゆくことを願った行事のようにも思えます(「世継榾」というくらいですからね)。

  • 特別に大きな火を焚く
     新しい火、旧い火という分類にはそぐわないですが、もう一つ、年越しの夜には盛大な火を焚くという風習もありました。これも、囲炉裏があった時代の話ですが。
    年越しの夜には、屋根裏まで届くほど盛大な火を焚き、その火が大きければ大きいほど、縁起がよく、福が呼び寄せられると云われたそうです。火は、不浄なものを焼き祓い、浄める力を持つものですから、盛んな火の力によって、家中を浄め、新年を迎えるという意味のある行事だったと考えられます。
囲炉裏 新しい火を用意するにしても、旧い火を引き継ぐにしても、いずれも火を絶やさないようにして暮らしていた人間の歴史を新年を迎える行事の中に見ることが出来る気がします。火を大切に扱ってきたご先祖様達の姿が浮かびます。今と違って、ずっと「火」が身近に感じられていた時代だったでしょうから、こんな行事が自然に生まれたのだと思います。
それにしても、いいですね、囲炉裏・・・。

水の話
 元日の朝に初めて汲む水を「若水(わかみず)」といいます。歳徳神に供える神聖な水のことです。若水とは新しい水の意味で生華水(しょうかすい)、若水桶、若井、初釣瓶(はつつるべ)等とよばれることもあります。
若水 若水を汲むのは年男(一般には一家の主、または長男)の役割とされていますが、西日本ではその家の主婦の役目とするところもあります(日本では主婦こそが、実質的一家の主なのかもね? あ、かわうその私見です)。若水を汲む際には、手順や使用する道具、汲む際に唱える言葉など、地方毎にいろいろな決まりごとがあるようです。
 若水にはこれを飲むと一年中、邪気を遠ざけるとか、若返りの霊力があるとも言われています。若返りの霊力に関しては常世(万葉集や古事記に登場する、黄泉の国、不老不死の国)から流れてくる、飲むと若返るといわれた変若水(おちみず)信仰からきていると考えられます。若水は炊事や雑煮を作ることにも使われますから、結局皆、若水の霊力にあやかれることになりますね。
 なお、若水は酒の醸造にも適した水とされており、このためでしょうか「若水」という名の酒米もあるようです。
  • 立春と若水 
     平安時代初期(十世紀初め頃)の宮中の年中行事や制度を記した延喜式によれば、若水は主水司(もいとりの つかさ)という役職の役人が立春の日の朝に汲む水で、これが内裏に奉られました(この一連の行事を「供若水」といいます)。
    泉 このように古くは立春の日のものであった若水が元日のものとして定着したのは江戸時代以降のことだといわれていますが、それ以前には元日の若水というものはなかったのかといえば、そうではないらしく平安時代に書かれた栄華物語には、正月元日の若水で皇子の産湯を行ったという一文があるとのことですので、かなり古い時代から元日に汲んだ水を若水というという考えもあったようです。
     この件については、暦の観点から考えるとさほど不思議でもありません。現在、日常で使っている新暦では元日と立春(2月4日頃)とは1ヶ月あまり離れた日ですが、新暦が使われる以前に長く日本で使われていたいわゆる旧暦(太陰太陽暦の一種)では歳の始まりは立春の日の前後(ただし年により、およそ±15日の変動あり)であり、立春の日が元日となる年もあることから、立春の行事が年初の行事と早い時期から混同されていたのでしょう。このあたりの感覚は、使う暦が旧暦から新暦に変わってからは判りにくくなっています。
 現在は火も水も、簡単に手に入る時代ですから、わざわざ年の初めに鑽火や若水としてこれを得るといった行事は廃れてきていますが、簡単に手に入るからといって、それが大切でなくなったわけではありません。年の初めくらい、そのことを思い出して、いつもお世話になっている火や水に対して、感謝し、手を合わせることくらいしてみてもよいと思いますが、いかがでしょうか?
余 談
今の人間は「火を使わない動物」?
焼魚好きの先祖様 火の行事について書きながら今はどうかと考えたのですが、どの行事も「昔のもの」になりつつあります。何と言っても、家の中で「火(炎)」を目にする機会がなくなってきましたから。
 照明で火を使うことはなくなりましたし、暖房器具でも直接に火を目にすることの出来るものは少なくなっています。今はまだ、煮炊きにガス等の火が使われていますが、それすらも電気に取って代わられつつあります。
この分で行くと「火を使う動物」だった人間も、その大部分が「火を使わない動物」になっていってしまうのかな? そのうちに「新年の火」の話なんて書いても、
 火ってなんですか?
なんていう質問が舞い込むようになるかもしれませんね。そうならないうちに、この話を書いておけてよかった・・・のかな?

※記事更新履歴
初出 2022/12/31
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