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【智慧と戒】(ちえ と かい) 智慧と戒とをもつは、沙門なり、 智慧あれば戒あり、 戒深ければ智慧もまた深し 《釈尊の言葉》 【知恵・智慧】(ちえ) 1.物事の理を悟り、適切に処理する能力。 2.〔仏〕(般若。ふつう「智慧」と書く)真理を明らかにし、悟りを開く働 き。宗教的叡知。六波羅蜜の第6。また、「慈悲」と対にして用いる。 3.〔哲〕(sophiaギリシャ・wisdomイギリス) 四つの枢要徳の一。 古代ギリシア以来さまざまな意味を与えられているが、今日では一般に、 人生の指針となるような、人格と深く結びついている哲学的知識をいう。 《広辞苑・第七版》 【戒】(かい) かい【戒】 1.いましめること。いましめ。さとし。「戒律・自戒」 2.漢文の一体。訓戒を目的として作ったもの。 3.〔仏〕心身のあやまちを防ぐための制禁。出家者・在家者の守るべき規則。 出家者の守る具足戒、在家者の守る五戒などがある。 戒律。禁戒。平家物語10「このつゐでに戒を保たばやと存じ候は」 《広辞苑・第七版》 今日紹介する「智慧と戒」は冒頭の釈尊の言葉から取り出したものなので、 言葉の意味としては辞書で〔仏〕と書かれた項目の意味となります。 「沙門(しゃもん)」は仏弟子の意味ですが、ここでは全ての人間を指す言 葉でしょう(人間は皆、仏の弟子という考えから)。 「多くの人々の才腕は、最後には欠点となってしまう。その欠点は老いるに つれて、ますます明らかになる」とは、19世紀フランスの批評家、サントブ ーブの言葉です。ここでの才腕は智慧と読み替えてもよいでしょう。智慧が あってもそれだけでは人間は次第に驕慢になってしまい、それが欠点となっ てしまうのだということだと思います。 世の中には「知恵(智慧)者」と呼ばれる人がいますが、その知恵者ぶりが 鼻についてしまう人も、世の中には少なくありません。これは、智慧はあっ ても戒が足りないからなのでしょうか。 智慧で生きて、驕慢に陥ることのないためには「戒」が必要となります。 「智慧あれば戒あり」と、智慧に戒が加わることで智慧は一段深い智慧とな る、釈尊の言葉にはそうした意味があるように思います。 さて、智慧ある者が驕慢に陥らないために戒が必要だとして、智慧のない者 はどうしましょう? 智慧がない者でも、やはり戒は必要なのではないでしょうか。 智慧がなくとも智慧があるかのように「戒」をもてば、やがてそれにふさわ しい智慧も身につく気がするのです。 最初は物まねでも、続けていればいつかはそれが本物になるように。 だから私は、「戒」から始めることにします。いつかその戒めに智慧が追い ついてくるように。 「最後まで知恵がつかなかったらどうしますか?」 大丈夫です。そうなったとしても、驕慢な知恵者よりは人に迷惑をかけずに 済みますから。 ※思い違い? 一度覚えてしまった言葉というのは、間違っているとあとで気がついてもな かなか直らないものです。 今日紹介する「智慧と戒」はどちらも仏教からでた語と考えると「ちえとか い」と読むべきなのかなと思うのですが、この言葉を最初に目にしたときに 「ちえといましめ」と読んだため、どうしても浮かぶ言葉の発音は「ちえと いましめ」の方です。 そして、「あ、ちえとかいか」と言い直すことになります。もっとも、この 言葉を使うことなんて、日常会話にはまずありませんがね。 最後は私の反省の話でした。
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