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【雁の使】(かりの つかい) [漢書蘇武伝](前漢の蘇武が匈奴に使者として行き久しく囚われた時、蘇 武を帰国させるために、「蘇武からの手紙が天子の射止めた雁の脚に結ばれ ていた」と使者に言わせて交渉したという故事から)消息をもたらす使いの 雁。転じて、おとずれ。たより。手紙。消息。雁書(がんしょ)。 万葉集8「九月(ながつき)のその初雁の使にも思ふ心は聞え来ぬかも」 《広辞苑・第六版》 本日、10/10は七十二候の「雁来る」の期間(2020年は10/8~12)と言うこ とで雁の渡りに関係のある故事からこの言葉を選びました。 最初は「雁書」の方を引いたのですが、そこにあったものは 【雁書】(がんしょ) 手紙。書簡。→かりのつかい 《広辞苑・第六版》 ときわめてシンプルな説明しかなくて、「これでは寂しすぎる」というわけ で参照のかかっていた「雁の使」の方を採り上げることにしました。 「雁の使」は紀元前2~1世紀にかけて生きた、前漢王朝の官僚、蘇武の故事 から生まれた言葉です。 蘇武は前漢の武帝の時代、北方の大敵、匈奴(きょうど)への外交交渉の使 者として送られた人物です。蘇武はそこで、匈奴(と匈奴に投降した漢の武 将)のゴタゴタに巻き込まれ、 匈奴に投降するか、死ぬか の二者択一を迫られることになりました。 蘇武は投降を拒んだため、死を待つ身となりました。 ただし、匈奴側にしても外交使節を処刑しては、その点を漢に責められてし まうので「蘇武は自然に死んだ」という体をとりたい。その結果、蘇武は穴 蔵のような牢獄に閉じ込められ、食べ物も水も与えられませんでした。 蘇武は、漢の使節の飾り物を口に入れて餓えをしのぎ、降り積もった雪をか じって乾きをいやしながらなんとか命をつなぎます。そのうち、いつまでも 死なない蘇武をみて、警備の匈奴兵らは この人は神かもしれない? と思うようになって、密かに供え物をするようになったことや、既に投降し た漢人たちの援助も得られるようになって、蘇武は生きながらえることが出 来ました。 蘇武がいつまでも死なないし、こんな境遇になっても匈奴に投降するとは言 わない蘇武の扱いに困った匈奴は、漢からの使節などの目にふれないように 現在のバイカル湖のほとりの地に蘇武を移し、羊を何頭か与えて この羊が子を産んだら、漢に返してやる と言い渡しました。 大分、温情的(?)措置ですね。 もっとも、蘇武に与えられた羊は全て牡でしたが。 もちろん羊が子を生むことはありませんでしたが、蘇武はこの荒れ果てた地 で草の実を採り、野ネズミを捕まえるなどして生き続けました。 そして19年。 漢は武帝の時代から次の昭帝の時代となっており、匈奴との間にも和睦が成 立しました。そんな頃、とうに死んだと思われていた蘇武が今も、匈奴の地 で捕らわれ、生き続けているという情報を漢に届ける者がありました。 漢は速やかに蘇武を生還させるように求める使者を匈奴に送りましたが匈奴 は「蘇武は死んでいる」の一点張り。そこで使者は一計を案じ 「実は先頃、陛下が狩をなさり、その時射止めた雁の足に『蘇武は沼の 中にいる』と書かれた絹の切れ端が結びつけられていたのですよ」 と、詰め寄ったのです。この計略が上手くいって、「バレている」と悟った 匈奴は、ついに蘇武をバイカル湖のほとりから連れ戻し漢に返しました。 19年ぶりに漢に帰還した蘇武の髪や髭は既に真っ白で、長い間の苦労の間に 風貌も変わってしまっていましたが、その手には君命を帯びた外交使節の証 である「節(せつ)」が握られていたとのこと。 この故事から、「雁書」や「雁の使」は遠く離れた人の音信を伝える物とい う言葉となりました。 秋の終わりから冬の初め、北から渡ってくる雁の群れを見ることがあるでし ょう。遠くから渡ってくる雁たちは、冬の訪れを知らせる季節の使いでもあ りますが、それ以外の何かも私たちに伝えてくれるでしょうかね?
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