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■川中島の戦い(八幡原の戦い) 頼山陽の漢詩「川中島」に 鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる) と詠われた川中島の戦い(第四次・八幡原の戦い)は永禄 4年(1561年)の 9/9 ~10にかけて行われました。 この日付を現在のグレゴリウス暦の暦日に変換すると1561/10/27~28となり ます。ということはこの戦いは季節で考えると、今頃の時期に起こったもの だと考えることが出来ます。 ◇八幡原の戦い 戦国時代の名将といえば真っ先に名が挙がる越後の上杉謙信と甲斐の武田信 玄の両雄が戦ったことで有名な川中島の戦いですが、「川中島の戦い」自体 は天文22年~永禄 7年(1553~1564)の12年間に及ぶ戦いの総称です。 この12年間の間に越後・甲斐両軍が対峙したのは計 5回ですが、その中で最 大の戦闘が行われたのは第四次川中島の戦い、永禄 4年(1561)のことでし た。この戦いはその主戦場となった地名、八幡原の名をとって 八幡原の戦い とも呼ばれます。この時の両軍の勢力は越後軍 1万 3千、甲斐軍 2万。 越後軍が甲斐軍の本陣まで切り込み、馬上の謙信が床机に腰掛けた信玄に斬 りかかり、信玄はこれを手にした軍配で避けるという講談や軍記物で知られ た名場面はこの戦いの最中に起こったこととされます。 もっとも、残念ながらこの絵になる名場面は史実ではないとされます(ただ し、一方の総大将である上杉謙信自身、刀を振るって戦った程の激戦であっ たのは事実のようです)。 妻女山に布陣した越後軍を数で勝る甲斐軍が軍を二つにわけ、別働隊は背後 から越後軍を攻め、越後軍が山を下りたところを本隊が正面から攻めるとい う挟撃戦法をとったのに対し、この動きを事前に察知した越後軍が夜陰に乗 じて密かに下山、朝霧が晴れる頃には別働隊の攻撃が始まるのを待っていた 甲斐軍本隊前に忽然と姿を現して、八幡原の戦いとなりました。 1561年の今日の今頃は、鶴が翼を拡げたような形の鶴翼の陣(かくよくのじ ん)の甲斐軍と軍をいくつもの隊に分け、その隊を次々に繰り出す車懸の陣 (くるまがかりのじん)で責め立てる越後軍との激闘が行われていたはずで す。 ◇1561/10/27~28? 八幡原の戦いが行われた永禄 4年 9月 9日~10日の日付を当時のヨーロッパ の暦の日付に直すと1561/10/17~18となります。これはユリウス暦での日付。 歴史の教科書などではこちらの日付が書かれていることがあります。 現在私たちが使用しているグレゴリウス暦は1582年に生まれた暦ですので、 それより前に起こったこの戦いの日付がユリウス暦の日付によって示される のは解らないでもありませんが、この戦いと西洋で起こった何かを直接比較 する必要があるわけではありませんから、それより「どんな季節だったか」 を考えやすいという点で、ここではグレゴリウス暦の日付で取り上げてみま した。 八幡原の戦いは越後軍 3千人、甲斐軍 4千人の戦死者を出してこの日の午後 には終了。両軍とも軍を引きました。なお、甲斐軍はこの戦いで最高幹部の 武田信繁、諸角虎定両将を失った程の激戦でしたが、両軍とも決定的な勝利 を得るには至りませんでした。
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