日刊☆こよみのページ スクラップブック(PV , since 2008/7/8)
■酉の市、武運長久から商売繁盛まで 11月の酉の日といえば、商売繁盛・開運招福の祭り、酉の市が全国の鷲(お おとり)神社、大鳥神社で開かれます。 酉の市は今は「とりのいち」と呼びますが、昔は「とりのまち」と呼ばれた ようです。「まち」は祭りを意味する言葉です。 ◇武運長久 さてこの酉の市のたつ鷲神社や大鳥神社は、元はといえば武神である日本武 尊(やまとたけるのみこと)にゆかりのある神社ということで、武運長久を 祈る武士たちの尊崇を集めた神社であったとか。 現在、酉の市は日本全国で見られる行事となってきましたが、元は関東独特 の祭りであったといわれます。武運長久を祈る神社での祭りということを考 えると、その発祥の地が武士の社会の中心地であった関東というのもうなず けます。 なお、酉の市が11月の酉の日に行われる理由は、日本武尊の命日が11月の酉 の日といわれているからだそうです。 ◇秋の実りを祝う農民の祭り さて、「武運長久を祈る」神社であった鷲神社でしたが、武士の社会も安定 し、武士が戦闘員として活躍した戦国の時代が遠退いた江戸時代も半ばには すっかり「武運長久を祈る」姿も見られなくなってしまいました。 そうした時代の影響でか、酉の市の性格も大きく様変わりして農民たちの祭 りになっていきました。 農民たちの祭りとなった理由は、酉の市の舞台となった神社が田舎にあった からでしょう。江戸周辺で酉の市で有名だったのは花又村(足立区花畑町) の大鷲神社、千住の勝専寺(しょうせんじ)、浅草の長國寺(じょうこくじ)。 それぞれ、「本の酉」「中の酉」「新の酉」と呼ばれていたそうですが、こ のいずれもが江戸時代はドンと田舎にありました。 今の風景からはなかなか信じがたいですが、浅草などは、 「浅草田圃(あさくさ たんぼ)」 などと呼ばれていたわけで、江戸時代の後期に発行された江戸の年中行事を 解説した書物、東都歳時記に「浅草田圃の酉の市」の絵があるのですが、そ の絵を見るとまさに周りは「一面の田圃」です。 農村があって、収穫が終わり、年越しの準備もぼちぼち始まる頃、そこに神 社やお寺があって祭礼が行われていれば周囲の農民が集まって市が立つのも 時間の問題。そして、武運長久を祈った酉の市がいつしか農民の祭りに。 農民の祭りにたつ市ですから、そこで売られるものは農具類であったり、日 用雑器だったりします。現在酉の市で人気の商品である「熊手」もこうした 商品のひとつとして売り始められたものです。 ◇商売繁盛の祭りへ さて、武運長久を祈る祭礼から農民の祭りとなった酉の市ですが、次第にこ の祭りが有名になって、江戸の町人たちも見物に集まるようになってきまし た。特に浅草の長國寺の酉の市は、吉原の裏門と接していて、祭礼の日には 普段は閉ざされている吉原の裏門も開かれて通行が自由にできたことから、 人気となったそうです。 こうなってみるとこの市に訪れる人の多くが地元の人から、今でいうところ の「観光客」みたいな人たちへと変化しました。観光客の心理は昔も今もあ まり違わないようで、 せっかく出かけてきたのだから、何か記念になるものを買って帰りたい ものなのでしょう。ここで人気が出たのが、熊手。 酉の市は、「福を取り(酉)込む」という語呂合わせでありがたがられたの ですが、熊手を使えば福を取り込むどころか「福をかき集められる」という ことで、縁起のよい土産物となりました。 今、酉の市の熊手といえば、お多福や、七福神、宝船、打ち出の小槌、鯛や 福笹など様々な飾りが付いています。酉の市が農民の祭りであった頃は本当 に実用的な熊手に、縁起物の稲穂を結びつけた程度のシンプルなものだった のでしょうが、次第に実用より装飾品としての価値に重点が移って、現在の ような姿になったと想像されます。 こうして熊手を買い求めた人たちは、江戸の町に帰ればその多くが商売に携 わる人々であったでしょうから、熊手でかき集める福とはすなわち、 商売繁盛 となって、商売繁盛を願う現在の酉の市となりました。 始めは、武士の武運長久の祭りであり、次に農民の収穫を祝う祭となり、そ の次は商人の商売繁盛を祈る祭りにと時代とともにその姿と性質を少しずつ 変えてきた酉の市、さてこれからはどんな祭りに変貌して行くのでしょうか。 自分の生きているうちに、今とは違った酉の市の姿が見られるのか? なんだかちょっと楽しみな気がしますね。 最後にもう一度、今年の11月の酉の日は、11/5,17,29の三度。明日は二の酉 です。
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