日刊☆こよみのページ スクラップブック(PV , since 2008/7/8)
■暦を替えた日食 今年(2009年)7/22に日食があることは、様々なニュースが流れていますか ら既にご存知のことと思います。 皆既帯が通るトカラ列島辺りは、多数の日食観測者(観望者?)を迎え入れ るために大童の様子です。 日食は、まあ珍しい現象ですし皆既日食ともなれば確かに一大天文イベント とはいえますが、ちょっとお祭り騒ぎが過ぎるような気がするのですが、皆 さんはどうお感じでしょうか? さて、私の感想はここまで。 ここからはまともな暦のこぼれ話です。 ◇日食予報失敗の弁明書 『蝕の算法未だ決定せず。(中略)日月食算法相定り候上も、三分以下の食 は暦に注せざること、公裁の上決定なり、(中略)当朔日の日蝕は五分ほ ど欠け申し候。推算の表は二分六十秒故、暦に注せず、然るに実測と二分 半程齟齬(そご)の事は、此已後(いご)とも、暦法全備の上までは無論 の事に御座候。(中略)推歩を失し候訳にては御座無く候。』 これは宝暦十四年(1763年)に幕府天文方の暦職連名で提出された弁明書の 抜粋です(広瀬秀雄著著『暦』に掲載された文面によりました)。 この年の九月朔日(グレゴリオ暦では1763/10/07)に起こった日食が暦に記 載されていなかった事に対する言い訳です。 日月食の計算方法はまだ完成されたものが無く、私たちの計算では食分が、 0.26の軽微な部分日食の予報だったので暦に掲載しなかったされた日食が、 実観測では食分 0.5以上となってしまいましたが、この程度の誤差は、未完 成な日月食計算法ではしかたのないこと。私たちの計算間違いなどではあり ません・・・というのがその内容。 言い訳しただけで、予報が狂った理由はどこにあったかとか、より正しい計 算をするための計算方法の研究をしようとか、そうした熱意が全くありませ ん。暦職のような専門的な技術職まで世襲制であった弊害でしょうか。 でも、それは私の責任ではありません。 規定に従ったまでです。 とは、現代でも何処かで聞いたことがあるような言い訳。 昔も今も、人間(役人?)は変わっていないようです。 ◇日食と暦 現在「暦」というとカレンダーを思い浮かべる人が多いと思います。 これは、日常の生活には便利ですが、一般のカレンダーでは日食月食など の情報はありませんから、現在大騒ぎされている7/22の日食なども、一般 のカレンダーには何も書かれていないと思います(イベントとして書いて あるカレンダーはあるかも?)。 ところが、江戸時代(以前)の暦には日食の予報なども載っていたのです。 そしてこれが間違っていると直ぐに「人々の知るところ」になったのです。 理由は、その当時の暦が太陰太陽暦で、月の始め(朔日)は必ず新月とな るのがお約束だったからです。 日食は新月の時に起こる現象ですから、暦が正しいかどうかは、日食を観 測すれば一目瞭然だったからです。 もし日食が二日だったり、前月の晦日にあったら、「暦が狂っている」こ とになります。 宝暦十三年の場合は、そうした日付の間違いではありませんでしたが、実際 に多くの人が気が付いた日食の予報が載っているべきの暦に載っていなかっ たので問題視されました。 ◇暦への影響 弁明書では、「計算方法が未完成だから」とありましたが、実は民間の暦研 究者の幾人かはこの日食の予報に成功しており、その日日食があることを京 都所司代等に知らせたりしておりましたから、天文方の諸氏が言い訳したよ うに計算法の不備だけにその責任を転嫁するわけにはいかなかったようです。 幕府もそのままには出来ず、以後は小さな食分の日食も暦に記載すること、 また問題のあると考えられる宝暦暦の改暦へと向かうことになりました。 日食が改暦のきっかけとなった一つの話でした。 現在は、日常使う暦と日月食とは直接結びつきがありませんので、日食予報 などは、一部の人間にしか関係ないことですが、今回のように社会的なイベ ントになって、みんなが眺めるようになると、予報を間違えたら大変ですね。 まあ、見て解るほどの間違いはまずありませんけれどね。
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