日刊☆こよみのページ スクラップブック(PV , since 2008/7/8)

■富士山測候所記念日(8/30)
 私が小さかった頃(ざっと40年ほど前)は「天気予報ははずれるもの」だっ
 たのですが現在は予報精度が向上して、「天気予報は当たって当然」と考え
 られるものとなっています。はずれるのが当たり前だった天気予報が現在の
 ようになった陰には、気象学と気象観測技術の向上に励んだ多くの人々の努
 力の積み重ねがありました。

 本日、8/30は富士山測候所記念日ということで、この記念日にまつわる話を
 一つ、お届け致します。
 
◇気骨の人
 明治時代に生きた人物の話を読んでいると「気骨」という言葉以外、評する
 言葉がない人がいます。本日8/30は、富士山測候所記念日であると同時に明
 治時代に生きたある気骨の人と、その妻の記念日でもあります。
 その人物(夫妻)の名は

  野中至(のなか いたる,1867-1955年)
  野中千代子(のなか ちよこ,1871-1923年)

 といいました。
 野中は、日本の気象学発展のためには高層気象の観測が是非とも必要と考え
 その観測の最適地は富士山頂と考え、ここでの通年観測することが必要だと
 訴えました。

 しかし、いくら主張してもそんな高所での通年観測など出来るはずもないと
 当時の良識ある人々からは相手にされませんでした。なにせ当時は冬季の富
 士山は、その登頂にさえ、誰一人成功したことがなかったのですから。

 富士山は昔からよく知られた山であり、夏の富士は登山客で溢れるほどです
 から、登りやすい山と思われるかも知れませんが、さにあらず。単独峰で風
 雪風雨の影響が強く、もろい土質で落石も多い危険な山です。殊に冬の富士
 山は、現在の登山技術を持ってしても大変危険な山です。

 強風と厳寒、そんな冬の富士山で気象観測なんてとても出来るはずがないと
 いうのが当時の分別ある人達の一致した意見でした。

◇富士山野中測候所
 野中は、こうした当時の常識を覆すためには、実際にやってみせるしかない
 と考え、私財を投じて富士山測候所の元となる野中測候所を作りました。
 今日8/30はその野中測候所の開設日です(1895年、明治28年)。

 野中もやはり一番の問題は冬の富士山頂の風と寒さだと考えました。そのた
 め実際の「富士山の冬」を経験しようと、この年の 1,2月に冬季の富士登山
 を行っています。

 当時のことですから、冬山用の登山用品などあるわけもなく、ツルツルの氷
 と化した雪面を登るための靴作りから始めなければならない有様でしたが、
 野中至は登頂に成功し、富士山頂での観測の可能性を確認しました。

 野中測候所が完成し、通年観測を目指して観測が開始したのは1895/10/1。
 この日から毎日、2時間毎に 1日12回の気象観測を野中至はたった一人で行
 い始めます。

 毎日昼夜の別なく 2時間毎の観測を一人でするのですから、それこそ寝る間
 もありません。そんな状態で一冬ずっと観測を続けるなんて、ちょっと考え
 れば「無理にきまっている」と、計画段階で解りそうなものですが、野中は
 そうは考えません(ある意味で「大馬鹿」です)。やってしまうのです。

 とはいいながら、やはりどう考えても一人では無理。少なくとも衣食住の世
 話くらいはしてあげないと。そう考えた野中の妻千代子は、至に少し遅れて
 富士山に登りました。

 細君の支援を受けて多少は現実的になった観測でしたが、それでもやはり無
 理なものは無理。結局、大馬鹿者、野中至のこの無謀な冬季観測は途中で中
 止せざるを得ませんでした。

 寒さと高山病、栄養失調で野中至は歩くことも出来ない状態になり(それで
 も膝に草鞋をくくりつけて、這って観測をしていた)、これに代わって観測
 を継続していた千代子もこれに近い状態となってしまったからです。

 こんな状態でもなお、観測を継続しようとした野中夫妻ですが、このままで
 は二人の生命が危険と考えた支援者たちは、観測所に救援隊をおくり、救援
 隊の説得によって夫妻が観測継続を断念したのが 12/22。夫妻はこの日、救
 援隊によって富士山頂から担ぎ降ろされました。

◇その後
 救助隊の救援によって一命は取り留めた野中でしたが、健康が回復するとま
 た何度も富士山に登って観測を継続しました。こうした彼の活動が徐々に認
 められるようになり、彼の提唱した富士山での高層気象観測の重要性も認識
 されて、中央気象台によって富士山測候所(中央気象台臨時富士山頂観測所)
 が建設されたのは昭和 7(1932)年、野中夫妻が冬季観測を行った年から37年
 後のことでした。

 昭和7年に開所した富士山測候所の開所の日付は7/1ですが、富士山測候所記
 念日はこの日ではなく、野中夫妻観測所が開所した8/30とされています。
 この記念日は、富士山測候所の記念日であるとともに気骨ある一人の大馬鹿
 者とその妻の記念日でもあるのです。

 ※富士山測候所での気象庁による常駐観測は2004年10月に終了し、現在は自
  動気象観測装置による気象観測施設となっている。

◇おまけ
 昭和7年の夏、野中至は中央気象台長の招きで開所間もない富士山測候所を
 訪れましたが、37年前の冬にこの山頂で共に過ごした細君は既に他界(大正
 12年、1923年。享年52歳)しており、二人そろって新しい測候所の姿を目に
 することは出来ませんでした。

 ちなみに、富士山頂の連続滞在日数の記録は現在でも、明治28年に記録され
 た野中至の滞在日数83日。そして第2位はその妻、野中千代子の71日です。

 【参考サイト】
 ・中野至(到)・千代子資料館 (NPO法人 富士山測候所を活用する会)
  https://nonaka-archives.jimdofree.com/

日刊☆こよみのページ スクラップブック