日刊☆こよみのページ スクラップブック(PV , since 2008/7/8)
■江戸「時の鐘」の話 本日は、はてなの茶碗さんからご質問いただいた、江戸の「時の鐘」にまつ わる話です。まずはいただいたご質問から。 ------ はてなの茶碗さんのメールから(一部抜粋) ------ (1)「江戸時代は不定時法」と云われますが時の鐘を打っていた寺社はどのよ うに時間を知り日々異なっていく刻を計算して鐘を打っていたのでしょう か? 不定時法による刻を知らせるからくり時計が江戸時代に作られ、日本を代 表する時計メーカーの時計史の資料館に収蔵されていることをネットで知 りました。しかしもしそれが寺社に普及していた場合、また、津々浦々の 町や村で時の鐘が打たれていた場合、物を大切にする寺社はそれらを捨て ずに保管し、後世の私たちがもっと身近に不定時法からくり時計を見てい たはずではないかと思うのです。 (中略) (2) 刻ごとに打たれていた鐘の数についてですが9~4といういささか半端に見 える数で、しかも時間の経過に伴い打たれる数が減ってゆくというのは、 現代の感覚からすると奇妙にも思われます。その背景にある考え方につい ても、もしご存じでしたらどうかご教示下さいませ。 (以下略) ------ はてなの茶碗さんのメール、おしまい ------ なるほどなるほど。 では、はじめましょう。 現代ならば、電波報時という手がありますので、日本国中、いえ、世界中で 正確な時刻を容易に得ることが出来ます。日本の場合、情報通信研究機構が 「JJY」のコールサインで知らせる標準電波が福島県の大鷹鳥谷山(おおた かどややま)と佐賀県の羽金山(はがねやま)の2カ所の送信局から発せら れています。現在のJJYの周波数は40kHzと60kHzの長波帯の電波です。 私のような古い人間には、2001年まで使われていた短波放送のJJYが懐かし いです・・・おっと、昔の思い出話に浸っている暇はありませんでした。 標準電波など用いることの出来なかった江戸時代は、電波ではなく音波を用 いて人々に時刻を知らせていました。「時の鐘」と呼ばれるものです。鐘で なく、太鼓という場合もありました。また、この時の鐘や太鼓を補うため、 一つの町内であるとか、大きな屋敷内などでは拍子木なども用いられていた ようです。 江戸や大坂、京都といった大都市では、時刻を知らせるための専用の鐘と鐘 を撞くための櫓などが作られていました。おそらく地方でも大きな城下町な どでも、それらしいものがあったと思われます。 さらに、もっと田舎の小さな町や村ではとなると、わざわざそうしたものを 作っていたかは不明です。私の推測ですが、小さな町などでは専門の時の鐘 など維持することは困難だったと考えられますから、こうした場所では、朝 夕のお寺の鐘などで、時刻を知ったものと思われます(朝夕の鐘くらいのこ となら鐘の音を聴かなくても分かるかな?)。 これから先は、比較的、記録の残っている江戸の時の鐘の話に絞って、その 報時の仕組みを説明してみます。 ◇江戸の「時の鐘」の場所 江戸の「時の鐘」というと、まず真っ先に揚げなければならないのが 本石町の時の鐘 です。本石町の時の鐘は、三河時代の徳川家康が気に入っていた花器などを 作っていた蓮宗というものが、願い出て時の鐘を撞く仕事に就いたことに始 まるもので、以後代々、蓮宗の子孫がこのお役目につくようになりました。 ただし、代替わりなどの際には幕府への届け出とその認可が必要でしたので そうした意味では、時の鐘も幕府の統制下にあったといえます。 江戸の時の鐘は本石町の時の鐘に始まり、江戸の街の発展に伴って、次第に 増えて、『江戸名所図会』(天保七年刊)には、 本石町、上野寛永寺、市ヶ谷八幡、赤坂円通寺、芝切通し、 目白不動尊、本所横堀、浅草寺、四谷天竜寺 の9カ所の時の鐘が記されています。ただし、これ以外の場所にも時の鐘が あったという記録もあって、時代によって増減があったようです。 ちなみに、時の鐘ですが、幕府から許されているといっても運営費などが幕 府から出るといったものではなくて、基本的には「鐘撞銭」といったものを 徴収する権利を認めてもらって、この収入によって運営されました。「鐘撞 銭」の額や徴収方法もそれぞれの時の鐘によって違っていました。ちなみに 本石町の時の鐘の鐘撞銭は、年間48文。これを鐘の音の聞こえる300町(後 には、さらに拡大)から徴収していました。 時の鐘は、当初は夜明けと日暮れの時を告げるだけでしたが、二代将軍秀忠 の時代からは、1日に12回、時を知らせるようになりました。 ◇時の鐘の時刻保持法 時の鐘を撞く為の時刻をどうやって知るかというと、はてなの茶碗がお考え になったとおり、時計を使っていたようです。 本石町の時の鐘の記録の中に、火事に遭って時計が消失したため、新しい時 計を購入した(金額は18両)というものがありますから、確実です。 とはいえ、機械式時計(当時は「自鳴鐘」と呼ばれていました)が時の鐘の 作られはじめた頃からあったのかというと、これは疑わしい。 機械式時計が無い時代は、水時計や香盤時計(火時計の一種)などを使って いました。 こうした時計とさらに細かな時刻を計るための尺時計という錘が下がる速度 を利用し時計などを組み合わせて、時の鐘を打つタイミングは管理されてい ました。案外厳密です。夜明け、日暮れには時計の調整も行われていて、時 計の狂いも最小限に抑えていたようです。 夜明け(明け六つ)、日暮れ(暮れ六つ)に時計を調節ということは、つま り、この時点で不定時報という昼夜の長さの変化に連動する時刻の管理もな されていたということが分かります。 のんびりしていた江戸時代というのは、案外私たちの思い込みかも。 ちなみに、こんなに管理しても時計には狂いが生じるもの。そうなると、 Aの時の鐘とBの時の鐘が全然合わないぞ! A,B両方の鐘の音が聞こえるところでは、こんな問題が起来てしまいます。 それで、こうしたことを防ぐため、複数の時の鐘がリレー方式で鐘を撞く決 まりがありました。 上野寛永寺 → 市ヶ谷八幡 → 赤坂成満寺 → 芝切通し の順番で、前の鐘の捨て鐘(時刻を示す前に、注意を喚起するために打つ鐘 のこと。現在の時報の「ピッ・ピッ・ピッ・ポーン」のピッみたいなもの) を聴いてから撞きはじめるとしていたそうです。きっと前述したような鐘の 音が合わないといった問題を回避するために作られた決めごとでしょう。 ◇時の鐘の付き方 時の鐘の撞き方については「捨て鐘を撞き、やや間を置いて時の数だけ鐘を 撞く」という方式でした。時の鐘の数は、 正子(深夜零時)から 九→八→七→六→五→四回 正午(昼の零時)から 九→八→七→六→五→四回 という回数を撞きます。これは、はてなの茶碗さんの質問(2)のとおり。 この、減ってゆく時の数え方、私たちからするとちょっと変。その上、終わ 「一」とかではなくて「四」というのも釈然としません。 この理由は・・・分かりません。 この数え方は、平安時代中期に律令の細則として書かれた『延喜式』にすで に書かれているものなのですが、なぜこうなったかという理由は、すでに忘 れ去られています。 一説には、最大の陽数(奇数)の「九」を積み重ね、 九 → 十八 → 二十七 → 三十六 → 四十五 → 五十四 とし、その一の位の数字で表したものだというものがありますが、この説に しても、何のために九を積み重ねる必要があるのか、納得できるものではあ りません。 この件に関しては、偉い先生方も「???」で理由は分からないというしか ないようです。もちろん私も、「分かりません」。 質問(2)については、こんなわけで、ご期待には添えませんでした。 ごめんなさい。 ◇おわりに 「のんびりしていたんじゃないかな?」 と、勝手に想像してしまいがちな江戸時代も、「時間に縛られた」世界だっ たようです。時の鐘が必要とされた理由の一つに、日当で働く人とそれを雇 う側で、労働時間の長短で揉め事が多かったため、これを防ぐというものが あったとか。時の鐘は、労働者のタイムカードの意味もあったんです。 ちなみに、説明に何度も登場した本石町の時の鐘は、今でも東京都中央区の 十思公園(その昔は小伝馬町の牢獄があった跡とか)という公園に残されて います。
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