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■朝廷と信長のもめごと・天正の暦日相違 天正十年(1582年)六月、天下を統一し戦国乱世を終わらせようとしていた 織田信長は、京都本能寺において途半ばでその生涯を終えることになりまし た。よく知られた「本能寺の変」です。 本能寺の変が起こった背景にはいろいろと複雑な事情や思惑があったようで すが、その一つに暦に関係する話がありましたので、本日はこの話を採り上 げてみることにしました。 本能寺の変の原因の一つ(だったかもしれない)暦の話というのは天正十年 ・十一年の暦日相違です。 ◇複数の暦と、暦間の暦日の相違 現在(戦後)は、誰でも自由に暦を作ることが出来る(おかげで「お読みの ページ」なんてものも自由に作れている)ようになりましたが、それ以前の 暦は公的に認められたもののみが作れるもので、暦を勝手に作り売ったり頒 布したりする行為は重罪とされました。 日本においての公的な暦は長らく陰陽寮(律令制において規定された役所の 一つ、天文、占術、暦の編纂等を所管)において作られていました。しかし これは統治機構がしっかりしていて管理が行き届いている場合の話。朝廷の 力が弱まり、全国に暦を配布し管理するようなことが難しくなると、陰陽寮 以外にも暦を作り、販売や頒布するものが現れるようになりました。そうし たものの一つに三嶋暦がありました。 ◇三嶋暦とは 三嶋暦は伊豆の三島神社から刊行された暦で、日本最古の印刷暦だと言われ ています。その歴史は京暦に次いで古く、「三嶋」と言えば印刷暦のことを 指すほど普及した暦で、14世紀後半には既に存在していたと考えられていま す。 昔々は、京の都から遠く離れたところではなかなか暦が手に入らず不便であ ったことから、各地で地方独自の暦が発行されるようになりました。三嶋暦 はそうした地方暦の雄と言って良い存在です。 さて、暦の計算とは大変(今は計算機がありますから大部楽)なので、地方 暦でも京暦の計算結果を使って暦を作るところも多くあったのですがこの地 方暦の雄、三嶋暦は宣明暦の暦法に従って独自に計算して暦を作っていまし た。このため時々三嶋暦と京暦との間に日付の相違がありました。 ※実は三嶋暦が14世紀末には存在していたと考えられる証拠の一つは、関東に 旅した人が、その地の暦(三嶋暦)と京都の暦の日付が 1日違っていたこと に驚いたことを書いた日記なのです。 ◇天正十年・十一年の暦日相違 信長の本国である尾張国は京と伊豆(三嶋)の間にありますから、どうやら 京暦と三嶋暦の両方が流通したようです。そして問題の年、天正十年(1582) と翌年の二つの暦に書かれた暦日が大きく違っていました。 違いが1日程度なら「アララ」くらい(?)で済むかも知れませんが、この年 の相違は、暦月が違っているのです。それも正月に係わるところが。 【京暦】 【三嶋暦】 A月 十二月 十二月 B月 正月 閏十二月 C月 閏正月 正月 D月 二月 二月 御覧のとおりです。 先頭のA月、B月・・・は朔(新月)の日で区切られる太陰太陽暦の暦月を 仮に表したものです。今回の暦日相違では暦月が違ってしまっているので混 乱を割ける意味で仮の名前を付けました。 こんなに違ってしまっていては笑い事では済まされません。尾張国の暦業者 はこの問題の裁定を信長に願い出ました。信長は陰陽頭(陰陽寮の責任者) を安土城に呼び出し尾張の業者とこの問題を議論させましたが決着がつかな かったため、最終的には信長が三嶋暦の閏十二月案に軍配を挙げ、この案を 採用するように朝廷に要請しました。 そんな要請をされても、作暦は陰陽寮の専権事項。その陰陽寮の計算した結 果で作られた京暦の案を取り下げることは出来ません。朝廷側は検討の結果 京暦案を採用することにし、この案に信長も納得しました。 これでこの暦日相違問題は決着したのですが、決着したとはいえ陰陽寮の、 つまり朝廷の専権事項である作暦について口を挟んできた信長を朝廷が快く 思わなかったのは確かなようで、このことからこの暦日相違事件が本能寺の 変にいたる様々な問題の一つではなかったのかと言われることになったよう です。 ◇暦法的に見た天正十年・十一年の暦日相違問題 歴史的な出来事としてこの暦日相違問題を見てきましたが、ここからは日刊 ☆こよみのページらしく、暦法的な問題としても見てみましょう。 当時の暦は太陰太陽暦で、朔(新月の瞬間)を求めて暦月の始まりを決定し、 この暦月に含まれる二十四節気の中気によってその暦月が何月になるかを決 めるものです。では、この規則に則って天正十年の年末から十一年の年始の 辺りの朔と中気を計算してみましょう。 A月 朔:1582/12/25 (小余:4349分) 大寒:1583/01/23 (小余:3116分)・・・十二月中気 B月 朔:1583/01/24 (小余:1590分) C月 朔:1583/02/22 (小余:6352分) 雨水:1583/02/22 (小余:6787分)・・・正月中気 D月 朔:1583/03/24 (小余:1832分) 春分:1583/03/25 (小余:2058分)・・・二月中気 参考に朔と中気のの西暦月日を入れています。()内の小余とは、朔や中気 の 1日以下の正確な時刻を表すものです。宣明暦では 1日を8400分と数える 時刻の単位を用いていました。例えば小余が5000分を今風の時刻で書くと 記で書くと 5000 ÷ 8400 × 24 ≒ 14.2857 → 14時17分 9秒 となります。 さて、上のA~Dの暦月に中気を使って名前を付けると A月:十二月 B月:閏十二月 C月:正月 D月:二月 となります。これが三嶋暦の天正十年~十一年につけられた月名です。これ に対して京暦はどうなっていたかというと、 A月:十二月 B月:正月 C月:閏正月 D月:二月 これを見ると京暦が間違いのように見えるのですが・・・問題はC月の朔の 小余、6352分です。6352分を今の時刻で表すと、 6352 ÷ 8400 × 24 ≒ 18.1486 → 18時 8分55秒 となります。この18時を過ぎた朔の時刻が問題です。 この当時使われていた宣明暦には「進朔(しんさく)」という不思議な規則 がありました。これは進朔限と呼ばれる時刻を過ぎた後に朔となったばあい 朔の日付けを一日進める(遅らせる)というものです。 宣明暦の進朔限は 3/4日、つまり18時ですからC月の朔はこの進朔限を越え ています。よって暦上ではこの朔の日付は本来の日付けから一日進めて C月 朔:1583/02/22 → 進朔して 1583/02/23 となります。正月中気の雨水の日付が1583/02/22ですから A月 朔:1582/12/25 (小余:4349分) 大寒:1583/01/23 (小余:3116分)・・・十二月中気 B月 朔:1583/01/24 (小余:1590分) 雨水:1583/02/22 (小余:6787分)・・・正月中気 C月 進朔:1583/02/23 D月 朔:1583/03/24 (小余:1832分) 春分:1583/03/25 (小余:2058分)・・・二月中気 となって、二十四節気の正月中気である「雨水」の節入り日がB月に含まれ ることになるのでB月が正月となり、続くC月に中気が含まれなくなるので この月は閏月となり、閏正月ととなります。 宣明暦の暦法を正確に適用すると京暦の「十二月・正月・閏正月」が正しい 並びで三嶋暦の採用した「十二月・閏十二月・正月」は間違いとなります。 計算上でわずか 8分55秒の差が正月の位置を一ヶ月も変えることになってし まったのです。 当時は計算機も無く、全て人力による計算です。手計算でこんな計算を延々 と続けて行くと、間違いもあるでしょうし、誤差の累積などもあって、たま これくらいの計算違いもあったのでしょう(あっちゃいけないことですけれ ど)。たまたまこの 年はその影響が「正月」に出てしまったとしたら「つ いてないな」ってことかもですね? ちなみにですが、宣明暦にはこのしょうもない「進朔」という規則があった のですが、宣明暦時代に必ず進朔の処理が為されていたかというと、この辺 りは少々曖昧。今回採り上げた暦日相違問題も、計算の誤差なんかじゃなく て、進朔するかしないか、作暦者の阪大の違いだった可能性もあります。 どっちだったのかな?? ちなみに上の説明で 『このしょうもない「進朔」という規則』 と書いた「しょうもなさ」についても、いつか時間があれば書いてみたいと 思います(今日は疲れたのでこの書きません)。。
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