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■茅の輪くぐり・2025
 本日は、一年の上半期の最後の日です。
 この上半期最後の日には、夏越の祓(なごしのはらえ)というお祓いの行事
 が行われます。この夏越の祓は年末の大晦日に行われる大祓と対をなすもの
 で、ちょうど半年離れたところにあります。

 旧暦時代は六月は夏の終わり、晩夏の月でした。
 夏の終わりの六月晦日とその翌日の七月朔日は暦の上では夏から秋への切り
 替えの日で、この夏の最後の日にそれまで半年間の罪障、穢れを祓うという
 のがこの祓え行事の意味です。

 六月(水無月)におこなわれることから「水無月の祓」、次に述べる茅の輪
 くぐり行事があることから「輪越の祓」などとも呼ばれます。

◇茅の輪(ちのわ)の由来と蘇民将来の話
 夏越の祓には、この祓の異称となる「輪越の祓」の呼び名の元となった茅の
 輪くぐりが行われます。茅の輪とは茅(ちがや)や、真菰(まこも)、蒲の
 穂を束ねて作った大きな輪です。

 この茅の輪を神社の鳥居や拝殿に据え、参拝者がこれをくぐることによって
 災厄や疫病から免れようとするのが茅の輪くぐりです。

 この茅の輪の由来とされるのは備後風土記にあったとされる(逸文)の「蘇
 民将来(そみんしょうらい)」の故事です。

  --------- 蘇民将来の故事(概要) ----------
 ある村に巨旦将来と蘇民将来という兄弟が住んでいました。弟の巨旦将来は
 富裕でしたが兄の蘇民将来は貧乏でした。

 ある夜のこと、武塔(むとう)の神という正体のわからない神が旅の途中に
 この村を通りかかり、そこで一夜の宿を請うたところ、裕福な巨旦将来はこ
 れを断り、貧乏な蘇民将来はこれを受け入れ、この神をもてなしました。

 さて、蘇民将来のもてなしを受けた後、旅を続けた武塔の神は、旅の帰り道
 に再びこの村に立ち寄ります。そして宿を貸してくれた蘇民将来に自分がス
 サノオであると名乗り、この村に疫病が拡がり人々が死ぬであろうと伝えま
 す。そして

  『お前とお前の子孫はこの災厄を免れるだろう。
   お前の子孫には目印として腰に「茅の輪」をつけさせよ。』

 と言って立ち去ります。
 そしてその言葉通り、茅の輪を腰に付けたものを残して、村の人々は疫病で
 死んでしまったそうです。
  --------- 蘇民将来の故事・ここまで ---------

 この故事から、茅の輪は疫病を避ける呪いの品となり、腰に付けた茅の輪が
 現在の茅の輪くぐりにつかう大きな茅の輪となり、そして民間信仰における
 疫病避けの一つが生まれました。
 長野県では茅の輪ではなく

  蘇民将来子孫

 という札を玄関にかける場合もあります。
 茅の輪も蘇民将来札も

  私は疫病を免れると約束された蘇民将来の子孫です

 という免罪符なのです。
 蘇民将来がこの様子を見たら、自分の子孫(を名乗る人)のあまりの多さに
 ビックリするかも知れませんね。

 数年前に世界に蔓延し、現在もその残滓が残る疫病がありました。そうした
 疫病が存在する限り、茅の輪の霊力に頼りたいという思いはなくならないで
 しょうね。

◇夏越の祓と閏六月
 さてここからは余談です。

 新暦では六月は一年に一度しかありませんが、旧暦時代には六月が二度ある
 年なんていうものがありました。閏月というものがありましたから、たまに
 六月と閏六月がある年がありました。こうなると問題が生じます。
 
  夏越の祓は六月晦日、夏の最後の日に行われる行事であるが
  六月と閏六月がある場合は、夏越の祓はどちらの月で行うべきか?

 という問題です。
 旧暦時代の人は、やはり現実問題としてこれに悩んだようで、専門家(陰陽
 師)にこれを尋ねたという話が「吾妻鏡」にあります。

 ※吾妻鏡(あづまかがみ)
  鎌倉時代末期に成立した歴史書。治承4年~文永3年(1180~1266年)まで
  の鎌倉幕府の事績を記録した歴史書。

 この問いに対する陰陽師の答えは

  夏越の祓は夏の終わりの日祓えなのだから、閏月であっても六月は六月で
  あり、夏の内であるから閏六月に行うべきだ

 というものでした(原典には当たっておりません。孫引きです。)。余分な
 もの(閏月)があると、余計な心配事が増えてしまうという例でしょうか。

 ちなみにですが、今年(2025年)はこの余計な悩みを持たなければならない
 年で、旧暦では六月が二度ある年です。
 新暦6/25~7/24と7/25~8/22がその期間。鎌倉時代の陰陽師の言を入れれば
 旧暦の夏越の祓は閏六月の晦日、新暦8/22に行うことになるのでしょうね。

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