暦と天文の雑学
http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0724.html
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節句の話・五節供とは
節句は元々は「節供」と書いていました。現在、一般的に使われている「節句」という文字は後に当てられたものです。節供とは一年の節目節目に置かれたハレの日を指す言葉で、節目となるハレの日にご馳走などを供えたことから「節供(せちく)」と呼ばれるようになったものです。
今では後に使われるようになった「節句」の文字を使うことが多いようですが、行事の内容を考えると「節供」の文字の方がよりよくその有り様を表すものだと私は考えていますので、こよみのページの中では基本的に「節供」の文字を使用するようにしています。
さて、節供とは一年の節目節目に置かれたハレの日と書きましたがその中でも特に重要とされた5つの節供があります。これを五節供と言います。五節供は江戸時代には公式な式日(現在の祝日みたいなもの)として取り扱われていました。五節供は現在は祝日というわけではありませんが、それでも重要な年中行事として祝われています。
五節供、それぞれの行事の内容については暦と天文の雑学内にそれぞれ説明のページを設けておりますが、ここでは簡単にまとめて示しておきます。より詳しい内容についてはそれぞれの説明文中のリンクをたどってお読みください(よろしくお願いします!)。
人日だけは、重日になっていませんが、どうやら大昔はこれも一月一日に行われていたようです。しかし一月一日は他の行事も沢山あったためか、一月七日に変わってしまいました。もっとも、一月七日に変わったのは日本に暦や五節供などの習俗が伝わるより以前のことでしたので、日本に伝わったときには既に現在と同じ一月七日となっていました。人日のみ重日でないのはこのようなわけですので、例外としてお許しください(私が謝ることではないか?)。
五節供それぞれには、その節供と結び付きの強い植物があって、その植物を冠した別名があります(前述した一覧の別名をご覧ください)。五つの節供はそれぞれに季節の節目として、その節目に相応しい季節の吉祥植物と結びついて、人々の生活の中に浸透してゆきました。五節供の形は時代により地方により少しずつ姿を変えながら現在でも各地で祝われる節目の行事です。これからも大切に残してゆきたいものです。
余 談
※記事変更履歴
初出 2001/3/1
修正 2022/1/27 (加筆修正、画像追加)
節句は元々は「節供」と書いていました。現在、一般的に使われている「節句」という文字は後に当てられたものです。節供とは一年の節目節目に置かれたハレの日を指す言葉で、節目となるハレの日にご馳走などを供えたことから「節供(せちく)」と呼ばれるようになったものです。
今では後に使われるようになった「節句」の文字を使うことが多いようですが、行事の内容を考えると「節供」の文字の方がよりよくその有り様を表すものだと私は考えていますので、こよみのページの中では基本的に「節供」の文字を使用するようにしています。
さて、節供とは一年の節目節目に置かれたハレの日と書きましたがその中でも特に重要とされた5つの節供があります。これを五節供と言います。五節供は江戸時代には公式な式日(現在の祝日みたいなもの)として取り扱われていました。五節供は現在は祝日というわけではありませんが、それでも重要な年中行事として祝われています。
五節供、それぞれの行事の内容については暦と天文の雑学内にそれぞれ説明のページを設けておりますが、ここでは簡単にまとめて示しておきます。より詳しい内容についてはそれぞれの説明文中のリンクをたどってお読みください(よろしくお願いします!)。
- 人日の節供(じんじつの せっく)
- 日付 一月七日
- 別名 七種の節供(七草の節供)
- 中国の古い時代には、この日は人の一年の運勢を占う日であったことから、人日の節供と呼ばれるようになりました。この日の朝には春の七草を入れた粥(七種粥)を食べ邪気をはらう風習があります。前日には七種粥のために鳥追い歌(これを七草囃しという)を歌いながら七草を刻むという習俗もあります。
- 上巳の節供(じょうしの せっく)
- 日付 三月三日
- 別名 桃の節供・菜の花の節供・雛祭り・重三の節供・草餅の節供
- 元は三月の最初の(上旬の)「巳の日」に行われたことから上巳の節供とよばれます。古くは河で禊ぎをし、穢れを祓い、あるいは身代わりとなる人形に穢れを移して河や海に流しました。江戸時代以降は、雛祭りとして庶民にも定着し、女子の節供とされるようになりました。
- 端午の節供(たんごの せっく)
- 日付 五月五日
- 別名 菖蒲の節供
- 元は五月の最初の(「端」の)「午の日」に行われたことから端午の節供と呼ばれます。古くはこの日薬草摘みを行い、摘んだ蓬や菖蒲を門口に飾り、その芳香で邪気を祓う行事でした。ここで登場した菖蒲(ショウブ)の語が「尚武」に通じるとして武士の台頭に従い男子の節供と考えられるようになり、次第に庶民にも浸透して、立身出世を願い幟や兜飾りを行うようになりました。
- 七夕の節供(しちせきの せっく)
- 日付 七月七日
- 別名 たなばたの節供・笹の節供
- 中国から伝わった牽牛星と織女星の星祭り伝説と、それ以前からあった日本の祖先を祀る行事が融合した節供だと言われています。女子が裁縫や手芸、書道の上達を願う行事でもありました。願い事を短冊に書き、笹に結びつける風習が各地に残っています。
- 重陽の節供(ちょうようの せっく)
- 日付 九月九日
- 別名 菊の節供・重九の節供・刈り上げの節供
- 易で陽数の極である「九」が重なることから目出度い日とされました。この日は菊の花を飾り、丘などに登って邪気をはらい長寿を祈る風習が中国にあり、これが日本に伝わったものです。宮中では「観菊の宴」を開き長寿を願ったといいます。秋の収穫の時期であることから、刈り上げの節供とも呼ばれます。五節供の最後を締めくくる節供として重視された節供でもあります。
◇五節供の日付
節供の日付はご覧の通りで、基本的には奇数の月で、月と日の数字が同じになる日(これを重日(ちょうじつ)といいます)が節供になります。これは五節供の発祥の地、中国では奇数のことを「陽数」と言いましたが、月日の形でこの陽数が重なる日は目出度い日という考えが有ったためのようです。人日だけは、重日になっていませんが、どうやら大昔はこれも一月一日に行われていたようです。しかし一月一日は他の行事も沢山あったためか、一月七日に変わってしまいました。もっとも、一月七日に変わったのは日本に暦や五節供などの習俗が伝わるより以前のことでしたので、日本に伝わったときには既に現在と同じ一月七日となっていました。人日のみ重日でないのはこのようなわけですので、例外としてお許しください(私が謝ることではないか?)。
五節供それぞれには、その節供と結び付きの強い植物があって、その植物を冠した別名があります(前述した一覧の別名をご覧ください)。五つの節供はそれぞれに季節の節目として、その節目に相応しい季節の吉祥植物と結びついて、人々の生活の中に浸透してゆきました。五節供の形は時代により地方により少しずつ姿を変えながら現在でも各地で祝われる節目の行事です。これからも大切に残してゆきたいものです。
五節供それぞれのページへのリンク
人日の節供/上巳の節供/端午の節供/七夕の節供/重陽の節供余 談
- 節供と労働
- 上巳の節句から重陽の節句までの期間というのは、ほぼ農作業の期間に一致します。五節句の日は昔から農村の共同体みんなが休む日となっていたようですから、当時の厳しい農作業に従事する者に節目節目で休息と娯楽を提供すると言うような効用もあったと考えられます。でも2ヶ月に1度というのは辛いですね。
※記事変更履歴
初出 2001/3/1
修正 2022/1/27 (加筆修正、画像追加)
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