暦と天文の雑学
http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0725.html
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人日の節供(七草の節供・七草の節句)
一月七日(正月七日)は、人日の節供という節供で、江戸時代の公式の祝日(式日)であった五節供の最初の一つでした。
人日の節供の日に七草粥(七種粥)を食し、一年の無病息災を祈るという風習が広く行われることから、七草の節供とも呼ばれます。
現在は、正月行事を行う「松の内」という期間の終わりが一月七日とされることが多いことから、人日の節供に食する七草粥が正月行事の締めくくる役割の行事となっています。
●「人日」の由来
人日という節日は、他の節供同様、古代中国に由来するものです。
6世紀に書かれた長江(揚子江)中流域の年中行事を記録した荊楚歳時記(けいそ さいじき)によると、正月一日から「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に日毎に家畜の占いを立て、それぞれの豊耗(出来不出来)を占いました。そして七日には人についての占いを建てたことから正月七日を「人日」と呼ぶようになりました。
この占い、占いと言っても単純なものでそれぞれの日の天気の善し悪し(晴陰)で吉凶を判断したとか。「朝晴れていたら、今日は何かいいことが起こりそう」というくらいの素朴な感覚ですね。また、この占いをする日には、占われる動物(家畜)は殺されないことになっており、人の運勢を占う人日も同様で、人に対する刑罰を行いませんでした。ちなみに人日の翌日、八日には穀物の占いを立てました。
人日の節供は、こうして一年の初めに家畜や作物などの占いを行った行事の一部で、その中でも人間の運勢を占う日を特別に尊び、節供としたものでした。
さらに荊楚歳時記の正月七日の条には「七種の菜をもって羮(あつもの)をつくる」とあります。現代の日本にまで残る、七草粥の慣習の萌芽が既に6世紀の中国にあったことが解ります。
●七草粥について
『せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草』と歌われる春の七草を現在のように粥にして食べる様になったのは室町時代以降のことだといわれます。江戸時代には幕府が人日の節供を五節供の一つとし、この日の朝には将軍をはじめとして貴賤皆が七草粥を食しました。
なお、鎌倉時代にも既に現在の七草を食べていたようですが、その時代は粥ではなく羮(あつもの。汁)だったようです。
●もっと昔の七草
万葉集にも既に前日に七草用の若菜摘みをしたことが詠われていることから調理法こそ違え、奈良時代には既に現在に近い行事があったと思われます。ただし、使われた材料は現在の七草と同じではなかったかもしれません。平安時代の記録に残るこの日の粥には、米・粟・稗・ミノ・ゴマ・アズキ・キビなどの穀類を使っていたようです。また、粥を食べる日付も正月十五日で現在の七草の節供とは異なっています。
思うに現在の七草行事は、元々存在していたこの宮中行事と中国伝来の七種菜の羮が組み合わさった形なのでしょう。聞くところによると、宮中で行われる七草粥の行事では、現在も前述した穀類が使われ、日付も正月十五日という古式に則ったものだそうです。
●七草と七草囃子(ななくさ ばやし)
最近は、みんな忙しくて、のんびり七草粥の準備なんて出来ないとは思いますが、本来の七草は前日に若菜を摘んで、年棚(歳神を祭った棚)の前で、七つ道具とよばれるものを並べた上で、七草囃子(ななくさばやし)を唄いながら刻んだものだとか。この七草囃子は地方により多少内容が違ってしまうようですが、大体は次のようなものです。
「七草ナズナ、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、
セリこらたたきのタラたたき」
読めば判るとおり、一種の鳥追歌です。作物を荒らす鳥を追う歌です。また、古代では疫神は外界からやってくるものという考えがあり
「外界から来るもの → 渡鳥」
という連想で、「鳥は疫神を運んで来るもの」というおそれもあって、このような鳥追歌を唄いながら、無病息災を祈る七草粥の材料を刻んだのではないでしょうか。既に何度か登場した荊楚歳時記にも
「正月夜多く鬼鳥渡る」
という記述があります。この正月の夜に多く渡るという「鬼鳥」の羽毛が人家に落ちれば「凶」であるとか。全ての鳥ではないにしても、鳥は外部から不吉を運んでくる存在であるという考えは、人日の節供が生まれた当時の中国にもあったようです。
なお、七草粥を刻む際に用意するという「七つ道具」は時代や地方によって違いはあるようですが、江戸時代に書かれた守貞漫稿という本には、七つ道具として
薪・包丁・火箸・杓子・銅杓子・すりこぎ・菜箸
の七つの道具があげられています。こうした道具を用意して、まな板を七回叩き、そして七草囃子を七回唄います。七回叩いて七回唄うので七×七で四十九。この数は七曜と九曜と二十八宿と五星の全ての数を足し合わせた数。全ての天の神の力をまとめた数とすることで、神の力によって豊作と平安な一年となることを願う、七草囃子の作法にはそんな呪い(まじない)の意味も込められていたのだとか。疫病や様々な天災を恐れなければならなかったご先祖様達の思いを垣間見た気がします。
●七草粥と小正月
現在は一月一日に始まる正月、「大正月」に正月行事は行われますが、この大正月に対して「小正月」とよばれるもう一つの正月が一月十五日から始まります。日本では7世紀後半に中国から伝来した新月の日に暦月が始まる太陰太陽暦が正式な暦として使われるようになりましたが、それ以前には満月を基準として行事が行われていたのでは無いかと考えられています。旧暦の十五日と言えば十五夜、この夜の月は満月と考えられましたから、小正月は中国から暦が伝来する以前の古い日本の正月の名残と考えられています。
一月七日の七草の節供は、一月一日に始まる大正月からすると正月行事の一つの終わりを示す節供のように見えますが、小正月からすると小正月に多く見られる作物の豊穣を祈るための予祝行事(目出度い出来事に感謝を示す行動を模擬的に行うことで、目出度い出来事を招来しようという行事)の一つだとも考えられています。
正月の七日の人日の節供、七草の節供とその日の朝にいただく七草粥、こんな風に見て行くと一つの行事、食べ物にも、沢山の願いや祈りが込められていることが解ります。
とはいえ、そこまで難しく考える必要はないでしょう。年頭に一年の無病息災を願って、家族みんなで「七草粥」を食べることが出来ればそれが一番です。
七草粥を食べながら、七草粥や節供の由来などが話題にでもなったら、その時にはこの記事のことを思い出して「こよみのページ」にお立ち寄りください。
修正 2022/12/27 (大幅加筆修正)
一月七日(正月七日)は、人日の節供という節供で、江戸時代の公式の祝日(式日)であった五節供の最初の一つでした。
人日の節供の日に七草粥(七種粥)を食し、一年の無病息災を祈るという風習が広く行われることから、七草の節供とも呼ばれます。
現在は、正月行事を行う「松の内」という期間の終わりが一月七日とされることが多いことから、人日の節供に食する七草粥が正月行事の締めくくる役割の行事となっています。
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※【参考】五節供とは
- 一月七日 人日の節供(七草の節供)
- 三月三日 上巳の節供(桃の節供、雛祭り)
- 五月五日 端午の節供(菖蒲の節供)
- 七月七日 七夕の節供(笹の節供)
- 九月九日 重陽の節供(菊の節供、刈り上げの節供) の5つを五節供と言います。
詳しくは 節句の話・五節供とは をお読みください。
●「人日」の由来
人日という節日は、他の節供同様、古代中国に由来するものです。
6世紀に書かれた長江(揚子江)中流域の年中行事を記録した荊楚歳時記(けいそ さいじき)によると、正月一日から「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に日毎に家畜の占いを立て、それぞれの豊耗(出来不出来)を占いました。そして七日には人についての占いを建てたことから正月七日を「人日」と呼ぶようになりました。
この占い、占いと言っても単純なものでそれぞれの日の天気の善し悪し(晴陰)で吉凶を判断したとか。「朝晴れていたら、今日は何かいいことが起こりそう」というくらいの素朴な感覚ですね。また、この占いをする日には、占われる動物(家畜)は殺されないことになっており、人の運勢を占う人日も同様で、人に対する刑罰を行いませんでした。ちなみに人日の翌日、八日には穀物の占いを立てました。
人日の節供は、こうして一年の初めに家畜や作物などの占いを行った行事の一部で、その中でも人間の運勢を占う日を特別に尊び、節供としたものでした。
さらに荊楚歳時記の正月七日の条には「七種の菜をもって羮(あつもの)をつくる」とあります。現代の日本にまで残る、七草粥の慣習の萌芽が既に6世紀の中国にあったことが解ります。
●七草粥について
『せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草』と歌われる春の七草を現在のように粥にして食べる様になったのは室町時代以降のことだといわれます。江戸時代には幕府が人日の節供を五節供の一つとし、この日の朝には将軍をはじめとして貴賤皆が七草粥を食しました。
なお、鎌倉時代にも既に現在の七草を食べていたようですが、その時代は粥ではなく羮(あつもの。汁)だったようです。
●もっと昔の七草
万葉集にも既に前日に七草用の若菜摘みをしたことが詠われていることから調理法こそ違え、奈良時代には既に現在に近い行事があったと思われます。ただし、使われた材料は現在の七草と同じではなかったかもしれません。平安時代の記録に残るこの日の粥には、米・粟・稗・ミノ・ゴマ・アズキ・キビなどの穀類を使っていたようです。また、粥を食べる日付も正月十五日で現在の七草の節供とは異なっています。
思うに現在の七草行事は、元々存在していたこの宮中行事と中国伝来の七種菜の羮が組み合わさった形なのでしょう。聞くところによると、宮中で行われる七草粥の行事では、現在も前述した穀類が使われ、日付も正月十五日という古式に則ったものだそうです。
●七草と七草囃子(ななくさ ばやし)
最近は、みんな忙しくて、のんびり七草粥の準備なんて出来ないとは思いますが、本来の七草は前日に若菜を摘んで、年棚(歳神を祭った棚)の前で、七つ道具とよばれるものを並べた上で、七草囃子(ななくさばやし)を唄いながら刻んだものだとか。この七草囃子は地方により多少内容が違ってしまうようですが、大体は次のようなものです。
「七草ナズナ、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、
セリこらたたきのタラたたき」
読めば判るとおり、一種の鳥追歌です。作物を荒らす鳥を追う歌です。また、古代では疫神は外界からやってくるものという考えがあり
「外界から来るもの → 渡鳥」
という連想で、「鳥は疫神を運んで来るもの」というおそれもあって、このような鳥追歌を唄いながら、無病息災を祈る七草粥の材料を刻んだのではないでしょうか。既に何度か登場した荊楚歳時記にも
「正月夜多く鬼鳥渡る」
という記述があります。この正月の夜に多く渡るという「鬼鳥」の羽毛が人家に落ちれば「凶」であるとか。全ての鳥ではないにしても、鳥は外部から不吉を運んでくる存在であるという考えは、人日の節供が生まれた当時の中国にもあったようです。
なお、七草粥を刻む際に用意するという「七つ道具」は時代や地方によって違いはあるようですが、江戸時代に書かれた守貞漫稿という本には、七つ道具として
薪・包丁・火箸・杓子・銅杓子・すりこぎ・菜箸
の七つの道具があげられています。こうした道具を用意して、まな板を七回叩き、そして七草囃子を七回唄います。七回叩いて七回唄うので七×七で四十九。この数は七曜と九曜と二十八宿と五星の全ての数を足し合わせた数。全ての天の神の力をまとめた数とすることで、神の力によって豊作と平安な一年となることを願う、七草囃子の作法にはそんな呪い(まじない)の意味も込められていたのだとか。疫病や様々な天災を恐れなければならなかったご先祖様達の思いを垣間見た気がします。
●七草粥と小正月
現在は一月一日に始まる正月、「大正月」に正月行事は行われますが、この大正月に対して「小正月」とよばれるもう一つの正月が一月十五日から始まります。日本では7世紀後半に中国から伝来した新月の日に暦月が始まる太陰太陽暦が正式な暦として使われるようになりましたが、それ以前には満月を基準として行事が行われていたのでは無いかと考えられています。旧暦の十五日と言えば十五夜、この夜の月は満月と考えられましたから、小正月は中国から暦が伝来する以前の古い日本の正月の名残と考えられています。
一月七日の七草の節供は、一月一日に始まる大正月からすると正月行事の一つの終わりを示す節供のように見えますが、小正月からすると小正月に多く見られる作物の豊穣を祈るための予祝行事(目出度い出来事に感謝を示す行動を模擬的に行うことで、目出度い出来事を招来しようという行事)の一つだとも考えられています。
正月の七日の人日の節供、七草の節供とその日の朝にいただく七草粥、こんな風に見て行くと一つの行事、食べ物にも、沢山の願いや祈りが込められていることが解ります。
とはいえ、そこまで難しく考える必要はないでしょう。年頭に一年の無病息災を願って、家族みんなで「七草粥」を食べることが出来ればそれが一番です。
七草粥を食べながら、七草粥や節供の由来などが話題にでもなったら、その時にはこの記事のことを思い出して「こよみのページ」にお立ち寄りください。
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余 談
- 今は昔の七草粥?
- 正月のお節料理に疲れた胃をやすめるために七草粥を食べると言いますが、皆さんはもう食べました? 旧暦時代であれば正月七日は春の初めでしたから、七草粥のために七草を摘むことも可能だったかも知れませんが、現在の新暦の正月では野原で七草を調達するのはちょっと無理そうです。春の始めの野は、現代ではスーパーにその立場を譲って、七草調達も近所のスーパーでということになりますかね。さ、では忘れないうちにスーパーで「七草粥セット」でも買って来ることにしましょうか。
- 春と秋の七草
- 七草と言えば春ですが、秋にも秋の七草とよばれるもう一つの七草があります。
「春の七草」と「秋の七草」は何が違うの、と問われたら皆さんはどう答えますか? 私だったら、「春は食べる七草、秋は眺める七草」と答えるかな?
- 盆と正月?
- 日本の年中行事の二大巨頭と言えば、「盆と正月」。特に正月を「小正月」と考えると、盆と正月はちょうど半年離れたよく似た行事だと気がつきます(盆は七月十五日、小正月は一月十五日)。そして盆と小正月に近い日付にある節供もよく似ています。それは七夕の節供(七月七日)と人日の節供(一月七日)。こちらもぴったり半年違い。
七夕の節供は、中国から伝わった星祀りの節供としての性格が強いものですが、それより昔から日本にあった祖霊信仰の行事の一種で、盆行事の始まりの行事でもあるとも言われています。そして人日の節供(七草の節供)もまた小正月行事の始まりの行事とも。
やはり似ていますね、「盆と正月」って。
修正 2022/12/27 (大幅加筆修正)
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