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重陽の節供(重陽の節句・菊の節供)
  
野菊
菊の節供
 節供は行事と関係する植物の名を冠して呼ばれることがあります。重陽もまた然り。その花は。称して菊の節供
節供の名には春の桃、初夏の菖蒲、そして秋の菊と季節を代表する花が配されています。
 重陽は昔の祭日であった五節供の最後を締めくくる節供。残念ながら他の節供が現在でも盛んに祝われるのに比べて、重陽の節供は今一つぱっとしません。忘れられた節供という感があります。

 さて、重陽の節句はたびたび出てくる中国の重日思想から発した祭日。重日とは月の数と日の数が同じ数字となる日付。めでたい特別の日付と考えられました。ここでは9月9日と「」が重なっています。9が重なることから重陽の節句は「重九(ちょうく)の節供」とも呼ばれます。
 次に重陽のですが、中国伝来の陰陽説によれば、奇数は陽の数、偶数は陰の数とされていました。9は一桁の奇数としては一番大きな数ですので「陽の極まった数」として陽数を代表する数と考えられました。
ということで「陽の極まった数の重日」ということで「重陽」となったわけです。

重陽の節供の時期
 重陽の節供は他の重日思想に基づく節供と同様に「日付」に固定された祭日です。それで現在では初秋の頃が重陽の節供となるのですが、元来は旧暦の日付で祝われたわけですので元は晩秋の頃の行事でした。
単に晩秋の行事と言ってもぴんとこないかもしれませんが秋の深まった頃に行われる月見、中秋の名月が旧暦8月15日の行事ですから重陽はそれより20日以上も後に行われた行事なのです。月見に関しては中秋の名月の1月後に後の月見(旧暦9月13日)があります。現在では10月末から11月の日付に当たるこの後の月見の4日前が実は本来の重陽の節供だったのです。
 現在では9月9日を「菊の節供」といっても、まだ菊の花は小さなつぼみの状態でぴんとこないネーミングになってしまいますが、本来であれば、菊の見頃だったのですね。

重陽の節供の意味と中国の行事
山茱萸の花
山茱萸の花
山茱萸の実
山茱萸の赤い実
 重陽の節供は元々は、自分や家族の長寿と一家の繁栄を祈る行事。
中国ではこの日、家族や友人などと連れだって近隣の小高い丘に登るということが行われていました。中国には古くから山に登って天と地の神を祀るという思想がありました(始皇帝や漢の武帝が行ったといわれる封禅の祭祀と通じるものがあります(片や一家の繁栄、片や全中国の繁栄とスケールは違うけど))。
また、この丘に登る際には髪に「茱萸(しゅうゆ)」(和名:かわはじかみ)の実を刺したそうです。

節供の際に芳香のある植物を身につけ邪気を払うという風習がありますがこの樹もそうです。
山茱萸(さんしゅゆ)の名で日本にも渡来しております(原産は中国・韓国)。香りが高い樹と言うことと名前が似ていることから山椒(さんしょ)と、また実が似ていることからグミと混同されることも多いのですが、春には黄金色の花を咲かせることから、「春黄金(はるこがね)」、秋にはグミによく似た赤い実を付けることから「秋茜(あきあかね)」の別名もあります。実は、乾燥させ薬とも成ります。
古くは、端午の節句に菖蒲で作った薬玉を御殿の柱に掛け、重陽の節句となるとこの薬玉を捨て、替わりに茱萸袋を掛けたと言われます。何れも厄除け・災難よけを願ってのこと。

日本の重陽の節供の行事
 他の節供がそうであるように重陽の節供も中国伝来の祭日。平安時代の初期に伝来し、始めは宮中行事として貴族の間だけで行われたもの。当時は中国から伝来したばかりの珍しい花だった菊を眺めながら「観菊の宴」を開き詩歌など読み、長寿を祈ったとか。
時代が下がるに従って、当初は貴族社会のみの行事だったものが
 「貴族 → 武士 → 庶民」
へと徐々に広がっていきました。今では影の薄いこの節供ですが、江戸時代までは五節供の最後を締めくくる節供として最も盛んな節供だったとも言われます。なお、この日の宴会には菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わしたとか。
また、菊合わせという今風に言えば「菊コンクール」に相当する会も盛んに開かれました。現在でも日付とは切り離されましたが習俗としては残っていますね。
中国には無い日本独特の風習としては、重陽の節供の前日から菊の花に綿を巻き(着綿)、菊の香りと菊の花に着く露をその綿に移して、この菊の露入りの綿で身を清めるというものがあります。何とも風流(やったことは無いけど)。庶民はこの日栗御飯などを炊いて祝ったとか。私としては風流より、こちらの栗御飯をとりたい。

重陽の節供と暮らし
 昔の人(旧暦を使っていた頃)にとっては重陽の節供は、衣替えの日でもありました。この日以後、衣類に綿などを入れて冬衣に変わったそうです。新暦に改暦されてからは9月9日に衣替えではちょっと。汗疹(あせも)だらけになりそうですよね。

各地に残る重陽の節供の痕跡
唐津くんちの絵
唐津くんち
(田中正秋画)
 現在でも重陽の節供が姿を変えて残った行事があります。
重陽の節供は時期的には全ての作物の収穫が終わった時期の祭りでしたから、この日を「刈り上げ節供」などと呼び、収穫祭りの様相を呈しており、この祭りが土着した行事があります。有名なところは九州地方。
 九州地方では祭りのことを「くんち」と呼ぶことがありますが、これは「九日」のことであると言われます。有名な「長崎くんち」「唐津くんち」も元は旧暦の9月9日に行われたものです。

 昔は盛んだった重陽の節供がどうして廃れてしまったのかと思うのですが、おそらく五節供の中で最も公的性格の強い行事でしたが、「公的性格」が強すぎて、民衆に浸透しなかったのではないでしょうか。また重陽の節供の収穫の節供衣替えといった生活に密着した側面があまりにも新暦の9月9日とそぐわなかったため、この部分が「季節」に合わせて移動してしまった後は、重陽という言葉以外残らなかったのでしょうか?
 定かではありませんが、明治以後急激に廃れたことは確かです。

余 談
登高
 重陽の節供の原稿を書いている途中で、息抜きに漢詩の本を開き、杜甫の「登高」という七言律詩を探して読んだ。中に、
 
  万里悲秋常作客  (万里悲秋常に客となり)
  百年多病独登台  (百年多病独り台に登る)
 
とある。この詩が故郷を離れ、独りで重陽の節供を迎える境遇を詠ったものと今回初めて知った(今まで何を読んできたんだろうね)。
偶然読んだこの詩、はまり過ぎといえばはまりすぎる。
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